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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

オキュパイド・ジャパン

日本はいまだに連合国(主に米国)の占領下にあるのではないかという感想を、以前記した。
もちろんそれは文化的な面からの感想でもあったのだが、
約3万7千人の米陸海空および海兵隊が日本領土内で軍事的に存在し、135施設 1,011,359,000?(Wikipediaに拠る)が日本領土内に存在するという事実をもって、どれほど日本が独立国家であるかということに相応の国際的論拠が与えられるのか。

・・・・にしても、これまでの私の語調や語彙は、なぜにこんなになっているのか・・・・ともかく・・・

日本国憲法第9条に関する議論に、この視点が抜け落ちているのはなぜか。
擁護派にせよ改憲派にせよ、果たして在日米軍(外国軍)の存在を顧慮した議論をこれまでに見たことがない。

第9条擁護論者は、もちろんの如くにその多くが、自衛隊違憲論であり、日本の非軍備化を理想としている。
しかしながら、在日米軍をゼロにすることを条件において、軍備廃絶を唱えたものは、大きな議論としてみたことはない。
ひが目で見れば、日本は非軍事化するが軍事面はアメリカにやらせる、という考えを表面化させずに「きれいごと」を言っているように思える。
それはたとえば、平安朝において、「穢れ」事を侍にやらせて自分はきれいごとのみを唱えていた貴族と同じスタンスであるといわれてもしょうがない。
日本の非軍事化は、在日米軍の全面的排除とペアでなければ意味をなさないことに、誰か言及しているのだろうか。

いっぽうで、(それ以前からもそうだったのだが)小泉内閣時代に顕在化し、現安倍内閣が押し進めている改憲論にも、在日米軍の存在に関する議論が抜け落ち、連合国(アメリカ)に与することが独立国家であるという、サンフランシスコ条約締結当時の潜在的同意が明らかになったという位置にこれらの議論が存立している。

右翼・左翼というイデオロギーがかつてはアメリカ対ソビエト連邦という構図の中にあったのに対して、改憲論者も憲法擁護論者も、じつは同じ土壌に成り立っているという奇妙な構図がある。

かつて右翼対左翼という対立が健全(?)であったころ、日本が共産主義(=ソ連の影響下=支配下)になれば、むしろ軍事化が進むという意見もあった。(アメリカ派の世論操作かもしれないが。)
冷戦構造が完全に崩壊して何十年もたった今、アフガンやイラクから見えるのは、「独立の構造とは何か」という命題ではないだろうか。

アメリカに与することで、独立しているという言質をアメリカから取るのか、在日米軍を完全に排除し、さらに自衛隊という名の軍隊を廃絶することで、全世界を相手に独立を宣言するのか。
日本とアメリカが戦争していたことを知らない世代がいるというこの世の中で、つまり、パクス・アメリカーナの中にどっぷりつかっている日本で、そのことは可能なのか。

私は戦争擁護論者ではない。軍備必要論者ではない。
しかし、軍備を持つ/軍備を全廃するということが、たんなる議論ではなく、私たちの全き自由な生存としての自立の議論としてなされたことはないのである。

改憲し軍隊を持つことも、憲法を擁護し軍備を全廃することも、まず日本から他国の軍備を排除することを大前提とする議論から始めなければ、どっちもどっち、なのである。
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