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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

三好達治(2007年夏の旅より転載)

三好達治の詩集『南窗集』に、「友を喪ふ 四章」がある。
その冒頭の詩、
  首途
真夜中に 格納庫を出た飛行船は
ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて
梶井君 君はそのまま昇天した
友よ ああ暫くのお別れだ・・・・・・ おつつけ 僕から訪ねよう!
さらに、四つ目の詩、
  服喪
啼きながら鴉がすぎる いま春の日の真昼どき
僕の心は喪服を着て 窓に凭れる 友よ
友よ 空に消えた鴉の声 木の間を歩む少女らの
日向に光る黒髪の 悲しや 美しや あはれ 命あるこのひと時を 僕は見る
三好が東京帝大に入学後の1926年、梶井らによって創刊されていた雑誌『青空』の同人に、三好が加わることによって梶井と三好は、出会った。
1927年には、伊豆湯ヶ島に転地静養中の梶井を見舞い、7月から11月まで滞在と年譜にはある。
その後1932年(昭和7年)3月24日、32歳で梶井は永眠する。
その時三好は、胸部疾患に心臓神経症を併発して、東京女子医専附属病院に入院中であった。
出会いから数年ではあったが、浅からぬ思いがあったことが、推しはかられる。
今私の前に、図書館から借りてきた「現代日本文学全集43 梶井基次郎・三好達治・堀辰雄集」がある。昭和29年5月筑摩書房発行の初版本である。
梶井、三好、堀と三人を並べると、何かしらひとつの、ひじょうに濃厚な、文学的香気ともいうべきものが立ちのぼってくる。
じっさい、本を開いて、活字の形が目に入るだけで、むせかえるような思いが私を襲う。
『抒情の論理』(吉本隆明・1963)所収の「『四季』派の本質-三好達治を中心に-」の中で吉本は、
戦争の現実に顔を向けることを強いられ、前途はどうせ無いものと思い定めていたわたしは、まったくかんがえも及ばない世界を展開してみせている「四季」派の抒情詩を前に、私たちはとうていこんな平安な生涯をおくれまいが、こういう人生や自然の感じ方があっても悪くはないではないか、とおもっていたのである。
と述べている。
この文章自体は、三好達治に対する批判的文章なのであるが、「三好達治を中心とした」「四季」派に対する感性的とらえ方は、私(たち)とさほど離れてはいないだろう。
吉本のこの文章の初出は1958年であり、それは私の生年であるが、私が三好達治や立原道造らの詩に心奪われる思いを持った十代後半、「前途はどうせ無いもの」という思いは針の先ほどもなかったが、「まったくかんがえも及ばない世界を展開してみせている」詩に、まるで真空に吸いつけられるように引き寄せられていた。
この大阪旅行の「お題目」を考えていたとき、三好達治が大阪生まれであることを知った私は、彼らの「抒情性」の何らかを探る旅にしようかと考えた。
三好の詩を読み、自分の中にある大阪のイメージと重ね合わせて、旅の構想を練ったが、何もつかむことはできなかった。
その抒情性を、「昭和モダニズム」と言うことも可能であるかもしれない。
そして、大阪の本質は「モダニズム」である(レトロな意味でも)と言うこともできる気がする。
しかし、三好達治の詩の雑ぱくさが、それであるとしても、それが大阪の本質なのか、あるいは、三好達治の詩を大阪という土地柄が生んだのかということになると、何とも言えない。
大阪を歩いても、たった一回限りでは、土地柄と詩人個人の抒情性とのつながりは見いだせない。
これは、最初の予感どおりであった。
私は、三好達治も、大阪も、とらえそこなっているのだろう。
しかし少なくとも、芭蕉が息を引き取ったという感慨も、三好達治に関しては感じ得なかった。
それは、梶井基次郎に関してもだった。
私は、大阪に関して、旅から帰った今も、何も知ってはいないし、感じ取ってもいない、ということが本当のところなのだ。
生まれた土地が、その人の何らかの傾向を規定するということは、漠然とうなずくことはできるが、いざそれを説明するとなると、困難を覚える。
ましてや文学作品を、作家の出生地が規定するかということについては、関係ないというありきたりの結論しか出せないだろう。
織田作之助にせよ、作品の舞台が大阪であるということだけが(登場人物の性向も含めて)、よりどころであり、表現者としての本質が何によって規定されているかという問題になると、まるで血液型占いのような、いいかげんな頼りなさに行き着かざるを得ないのである。
旅を計画し始めたとき、、三好達治の詩の拠って立つものが大阪にあるのか探ろうと考え、その詩を読み返した。
繰り返し読みながら、この抒情性に戻ってはならないのだという思いが、私を繰り返し襲った。
理由はわからない。本能的な、皮膚感覚というべきものである。
先ほど「三好達治の詩の雑ぱくさ」と言ったが、その「雑ぱくさ」とは「庶民性」と言ってもいいように思う。
梶井の死を悼む詩のようなものから、高度な文学的感性や技巧的知性に彩られたものまで、足の裏は庶民性から一ミリも離れていないことがわかるだろうか。
私が戻ってはいけないと感じた抒情性とは、そこなのかもしれない。
これは、私の極個人的な問題である。
個人的問題を読ませて、ごめん、である。
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釈迢空(2007年夏の旅より転載)

8月13日(月)晴(続き)
そこから少し行って左折すると浪速図書館があり、その先に敷津一丁目に鴎町公園がある。
そこに折口信夫文学碑がある。
道頓堀、戎橋筋の人混みは嘘のように、人もまばらである。
17:10。少々荒れた感じのする公園内に、数人があちらこちらに涼を取っているのか憩っているのか。
犬を連れて散歩してする人たちも、三々五々やって来る。

釈迢空・折口信夫の短歌に触れたのは、中学2年の国語の授業だった。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
釈迢空というと紫の色を思い出すのは、この歌のせいなのだろう。
1887年(明治20年)2月11日、大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西)に生れる。父秀太郎、母こう。七男二女の第七子、五男にあたる。生家は生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた
文学碑には、「十日戎」と題されて

ほい籠を待ちこぞり居る 人なかに、
 おのづから
われも
  待ちごゝろなる
の、『大阪詠物集』からの作が、二行に改められて彫ってあり、つづけて「増井の清水の感覚」の一文が彫ってある。
  ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ
鶏(トリ)の子の ひろき屋庭に出でゐるが 夕焼けどきを過ぎて さびしも

あまたゐる山羊みな鳴きて 喧(カマビス)しきが、ひた寂びしもよ。島人の宿に
葛の花の歌は、踏まれてみずみずしい色を沁ませた花びらから、自分より前にここを歩いた人があったのかと推測しているのではない。
葛の花を踏んで通った人の姿を、まざまざと目前に見ているのである。
だからこそ「行きし人あり」と言い切っている。それは、自分の直前にこの道を行った人でもあり、太古この道を行った人でもよい。
鶏(トリ)の子の歌の「さびしも」という結句は、親鳥をなくした雛を哀れと思うのでもなく、薄暮の庭に親のいるときと同じようにしている雛鳥の思いと同化している。
そして、たくさんの山羊の鳴き声のやかましい響きのなかに、山羊たちの思いと一体化する。
それは「悲し」でも「哀れ」といったものごとを自分と相手と対象化する語ではなく、何も知らぬかのような、それでいてすべてを知っているような思い、「さびし」でなくてはならない。
文学碑のほい籠の歌も、「おのづから われも」と自覚のないままに、ある一つの思いへと、まるで睡眠へと引きずり込まれるように落ちていく心性のもと描かれている。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
アララギ派の巨人、斎藤茂吉は「観照」を主唱した。
観照の説は、対象と自我との一致・一如を唱えるが、
たとえば茂吉の

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり
/『赤光』
などは、自注によれば、母親の臨終の時そこに燕がいたと言うだけである。
もちろんその「言うだけ」というのが肝要で、そこにあるがままを、自分の見たままを描きながら、そこに一個の世界を出現せしめるのが「観照」である。
茂吉が目前の世界をそのまま描き取るのに対して、迢空は対象への没入がいかにも激しい。
迢空は己の性質に関してこのように詠んでいる。

いまだ わが ものに寂びしむさがやまず。沖の小島にひとり遊びて
釈迢空は取り憑かれやすい体質(憑依体質)だったように思える。
一見「見たまま」であるが、その風景中の一風物への没入ぶりは「ものに寂びしむ」というごとくである。
寂びしむ」とは寂々としたかそけき様相であるが、本人が「いまだ~さがやまず」というように激しいものであったのである。
また、日本民俗学の祖とされる柳田国男も憑依体質だったようだが、柳田がおもに人事に移入したのに対して、釈迢空・折口信夫の場合、対象が動植物に及び、その点独自であると言って差し支えないのかもしれない。
取り憑かれるとは、我が彼になり彼が我になるといった同一化、一体化、彼我不可分の領域に至ることである。
そうした特性ゆえにアララギと袂を分かつことになったのであろう。

夏の暑さの去る気配もない、ごみの散らばる公園に、ごく普段着で物憂く集まる人々を思い出すと、それらの光景が「ものに寂びしむさが」ゆえの懐かしさを帯びる。

小林秀雄『モオツァルト』(2007年夏の旅より転載)

8月13日(月)晴

池田ICから豊中ICで都市高速へ入る。
いつの間にか中之島の横を通り、1号環状線道頓堀出口に。
出口からすぐに、じつに順調に14:45大阪なんばワシントンホテルプラザに到着。
道路ひとつへだてて道頓堀という、じつによいロケーション。
しばし休息して、15:30さっそく道頓堀へ。



もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。
小林秀雄『モオツァルト』の第二章は、冒頭にモーツァルトの交響曲第四〇番K.550第三楽章の冒頭の主題の五線譜を置いたあと、そう記される。
さらに、

僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。兎も角、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。町の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄えた。
『モオツァルト』は「創元」昭和二十一年十二月号と、新潮文庫版には記してある。
昭和二十一(1946)年から「二十年も昔」となれば、1926年頃。
年譜によれば、
1925/04初 (22歳) 富永太郎を通じて中原中也を知る
1925/09 中原中也の帰郷中に長谷川泰子に会う
1925/10/08 大島に旅行(泰子は待ち合わせに間に合わず)
1925/10  帰京後盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術
1925/11/12 富永太郎、肺結核により二四歳で死去
1925/11/14 正岡忠三郎、入院中の小林に富永太郎の死を告げる
1925/11下旬 杉並町天沼に長谷川泰子と同棲
(中略)
1928/03 東京帝国大学卒業
1928/05/25 (26歳) 長谷川泰子と別れ、関西へ向かう
1928/05末 大阪の日蓮宗の寺に宿坊する
とある。
『モオツァルト』に言う「二十年も昔」とは、泰子と別れた頃であると考えれば、事情が合う。
長谷川泰子の自伝『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』(角川文庫) によれば、鎌倉で小林と同棲中の泰子は神経症的症状を顕し、常に手を拭っていなくてはいられなかった。
そうした泰子に小林はじつにやさしく丁寧に接していたようである。
が、それは、触れてはならぬものを手元に置いているゆえのようにも、思える。
そして、それに耐えられなくなっかたかのような別離。
小林の頭に「ト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴った」のは、そうしたさなかであり、その当時を「自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう」とふりかえっているのである。
さらに続けて言う、

モオツァルトのことを書こうとして、彼に関する自分の一番痛切な経験が、自ら思い出されたに過ぎないのであるが、一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えないのである。
彼に関する自分の一番痛切な経験が」と自分のナマな体験を回避し、「一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、」と途切れ途切れに読点を打ち、「その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えない」と迂回した断定を下すあたり、まさに小林自身にとっての「一番痛切な経験」がこの道頓堀で、まさに痛切に回想されたと考える可能性はある。
そしてその「痛切な経験」が過去のものとなっていることを、「その頃よりよく理解しているのだろうか」と振り返えざるを得ないのである。
道頓堀の雑踏は、翌日夜のあふれかえる人混みと比べればそれほどはなかったのだが、戎橋筋商店街の雑踏は、この日が何か特別な催し(たとえば万国博覧会のような)でもあったのかと思えるほどであった。
ざわめくような雑踏は、ト短調シンフォニイ第四楽章のテーマによく似ている、あるいはよくマッチしている。
失われた恋の思いは予期しない状況の中で生々しくよみがえる。

確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のように悲しい。
という思いが、自身のよみがえる感覚の中に確かめられる。
そして、

彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な荷物を引きずっていないだけだ。
という分析は、自らの過去の恋に対する哀惜であるかのようでもある。

彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。
「彼」(モオツァルト)とは、読者に、小林が見つめる(二十年も昔の)若き日の小林自身と重なって見える。
小林秀雄は、中原中也に対するコンプレックスから生涯脱することができなかったのではないかと、私は思っている。
小林も天才の一人ではあるが、それは中也の天才とはちがう。ちがいすぎる。
小林は中也に対するコンプレックスから逃げることも押し潰されることもせず、早逝した中也の天才というものを、自らの天才で再構築したのではないかと思える。
中也の帽子をかむった有名な写真の目、この世のものには焦点が合わず、その先を見るがゆえに絞りが開いているような目が、見つめていたものを、小林は、近接から無限遠まで見とおすような、あの引き裂かれたような目で描き直そうとする。
彼は、中也の持っていたものを、すべて自分のものにしなければ気が済まなかったかのようである。(たとえば長谷川泰子を奪ったように・・・?)
それはジェラシーであると同時に畏敬であるような感情と、その具現的な行為だったのである。
だからこそ、『モオツァルト』は実体験から二十年(中也の死後から十年以上)経ったから書くことができたようにも思える。
小林秀雄の『モオツァルト』は高校二年生の時に買って読んだのだが、なんだか難しいという印象だけが残った本だった。
晦渋とも思える小林の文章も、言葉ではない「そのもの」を、言葉で表現しようとする苦闘の跡であることが、それから三十数年経った今になって理解される。
美しいものを「美しい」という言葉ではなく、その美しさのもたらした心的・身体的反応を同様に読み手にもたらしたいという、表現者にとってごく当たり前でありながら最も困難な道を、小林秀雄は生涯たどったのだと思う。
そしてそれは小林以前には、中也が(血を吐く思いの一生涯の中で)ごく当たり前のように成したことなのだと、私は思う。

じつは、そのようなことを考えたり思ったりする余裕もないような戎橋筋商店街の雑踏の中を、私はひたすら人混みを南へと、南海難波駅へ向かった。

なぜことばが

なぜ言葉が何かを伝えたり、表したりすると信じているのだろう。

(信じるとは、信じるということをスキップすること。
表明すら必要としないこと。)

言葉によって傷つくこと、は、欺されるとはまたちがう。
言葉は、その周辺をうろつく。
うろつくことで、言葉としての資格を与えられる。

言葉の芸術といわれるものが、種々さまざまあることが、そのことを表している。

言葉を精緻にすればするほど、言葉を発するもとになったことがらから、離れていくということは、
古来言葉使いたちが言ってきたことなのに。
だから{言葉を精緻にすればするほど、言葉を発するもとになったことがらから、離れていく}から、技巧を巧緻にし、
「指し示す言葉」からいったん離れる。

古今から新古今への道程は、このことと一致しているように思える。

そして、巧緻にすればするほど、何かを表したり伝えたりしているように見えて、そのくせ何も伝えても表してもいないように、私たちには思えるようになる。

けっきょく{
何も=ない}

ネット社会と言われる世界は、
詰まるところ、
言葉の世界でしかない。

だから(か)、
言葉を所与のものとして認めなければ、何も存在しなくなり、
人間の感情は、冷徹さの下に、否定される運命だとかんがえられている。

そしてそのじつ、私たちは、感情だけですべてを判断しようとしている。
<~end>

茄子供養(2)

ものごとを理解するということは、それらを支配下(アンダー・コントロール)に置くことなのだろう。
それは物理的な支配とは限らない。
意識下の支配となる。

「××は○○だ。」という単純な構文。
××を○○だと理解することは、××を○○だと規定することであり、理解する側が○○だと規定することによって××を支配することである。
あるいは、支配することによって規定が可能になる。

しかしながら、理解される側には、支配されない(アンコントローラブル)部分が残る。
この支配されない部分というのは、じつに、理解する側・支配する側には見えない。

つまり、理解する・支配するということには、理解されない・支配されないということが含まれていくのである。


言葉というのは、理解するためにしか使えない。
理解されない・理解できない・支配されない・支配できないことは、
否定形・打ち消しでしか表現できない。
(ということで、否定形の発見は、レトリック上重要な発見だったわけだが)。
「××は○○ではない。」
では、××は何なのか。
「○○ではない」としか表現されないときに、××に対する理解・支配は物理的な局面に及びうる。

理解・支配の道具である言葉を積み重ねることで、理解されない・支配されないもの(こと)に手を触れることはできるだろうか。

私たちが「慰霊」とか「供養」と呼んでいる行為や心性の中に、
積み重ねた言葉の石垣の隙間から、理解されない・支配されないもの(こと)の何らかの形が、しみ出す清水や、草の芽生えのように、浮かんでくるのではないか。

芥川龍之介「蜜柑」

「云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた」「私」は「二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた」主人公は「夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた」のだが、その彼の前に「如何にも田舎者らしい娘」が「三等の赤切符」を「大事さうにしつかり握」って「前の席に腰を下し」た。

あ、分析はいいや。
主人公はこの娘に苛立ちを覚えて新聞を読もうとするのだが、娘が気になって、機械的に目を通しているにすぎないという思いに支配される。そして、
「これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛はふり出すと、又窓枠に頭を靠もたせながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。」
でまあ、トンネルに入ると同時に娘が列車の窓を開けて、機関車の煙にむせて、娘に対してむかつく主人公。
しかしながら、窓を開けた理由が、次に描写される。
「暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色と」
はたしてこれは、「鮮やかな」色彩をもった景色なのだろうか。
鮮やかなのは、蜜柑の色である。
そして「小娘」の行為である。

芥川が『藪の中』で描いたのは、当事者でさえ真実をかたりえない(殺害された当の本人(の幽霊)でさえ)、言葉の不安定さ。そして、その言葉の背後・裏にある、当人の実体験ですら真実ではない~言葉にしたとたんに真実でなくなるという「シューレジンガーの猫状態」~であったのだが、その3年前に書かれたこの『蜜柑』に、言葉が芥川にとってそのようなものであることが、予感的に描かれている。

芋粥 1916年
蜘蛛の糸 1918年
蜜柑 1919年
杜子春 1920年
藪の中 1921年
トロツコ 1922年
詩集 1925年
或阿呆の一生 1927年

これだけの作品を取り上げてきたが、芥川の悲劇は、そうした「予感」に自覚的でなかった/知っていて無視した/知らないふりをしなければならなかったところにあるのではないか。

芥川龍之介についての考察は、これでいったん筆を擱く。
次に芥川について書くとすれば、先述の「予感」を自覚していたか、いなかったかに関する考察となる。

俳諧の発句

俳句は「読み」の芸術である。

俳諧の発句として存在したとき、それはその後に続く(歌仙ならば)35句の存在を想像して作られたはずだ。
だから、発句は「読まれて」その意味を持つように作られたはずだ。

子規が「俳諧の発句」を「俳句」と言い換えたとき、後に続く35句は想定されなかった。「蕪村句集講義」を読んでいるとそのことがよくわかる。
が、DNAとしてその性格は残された。

だから、俳句が「読み」の芸術として、存在している。

詩人とは

詩人とは、ものを見る目だと、何年か前に書いた。

詩人とは、詩を書くことを義務づけられたと自覚する人のことだな。
誰が義務づけたのか、それはどうでもいい。
自分が、それを義務だと思う人が、詩人なのだと思う。

表現とメディアとは、

基本的に、表現とメディアとは、異なるものだな。
今日これまでブックマークしていたブログやら見ていて、ふと気づいた。
誰かに見てもらうことが目的なのは、表現のごく一部でしかない。

十数年前、あるいは二十年くらい前には、
書くことによって自分の考えが明らかになる、
という言説が真実性を持って語られていたのに、
今では「発信」ととらえられている。

誰かに見てもらえなければ、
誰かに届かなければ、
表現として成り立たないのだろうか。

言葉とは、誰かに届けるためだけに、私たちに与えられているのだろうか。

七十而従心所欲不踰矩

七十而従心所欲不踰矩

【七】
字は切り断った骨の形で象形。~七は聖数とされ、名数として用いる語が多い。文体の名として〔七発〕〔七啓〕〔七諫〕など多くの作品が残されているが、その初義は、列挙的に賦誦することだま的な文学で、一種の呪誦文学と見るべきものであった。「七」はこの場合においても聖数的に用いられ、必ずしも実数ではない。
【従】
~軍事や祭事に随行・随従する意に用いることが多い。
【心】
心臓の形に象る。~心は生命力の根源と考えられていたが、卜文にはまだ心字がみえず、ただ聖化儀礼としての文の字形中にあらわれる。金文では神霊を安んずる寧(ねい)の儀礼、神判における勝訴を示す慶など、やはり神事に関する字にみえ、その他徳や愈など情性に関する字も二十数文をみることができる。文字の展開を通じて、その意識や観念の発達を、あとづけることが可能である。
【所】
~祖霊を祀る所をいうのが原義で、のち君主の在るところにもいう。~また関係代名詞的に用い、受身の語法もある。~
【欲】
声符は谷(よう)。谷に容・浴・裕の声があり、字義にも系連するところがある。容は廟中に祈って、その神容が彷彿としてあらわれること。その下す福を裕という。浴はみそぎ、欲はその神容を見んとねがう意で、欠(けん)は咨嗟詠嘆することを示す。~のち欲は欲望の意となり、欲情・貪欲の字となるが、もとは神霊に接したいという宗教的願望を意味した。文字にもまた、堕落の傾向がある。
【踰】
字統にはない。
「兪」
~兪系の諸字は、みなこのような兪の正義を受けるのもで、愉・愈・癒はその治癒によって心の安らぐことをいい、輸は他にものを移すこと、移送の意を承ける。
「逾」
~兪にここより彼に移す意がある。
【矩】
声符は巨。巨は矩の初文。〔説文〕五上に巨をその正字とし、「或いは木矢に従ふ。矢なるものはその中正なり」とするが、その矢の部分は、金文では巨を持つ人の形である。〔楚辞、離騒〕に「榘矱(くわく)の同じきところを求めよ」とあり、榘矱とは法度をいう。
「巨」
矩形の定規。~字を巨大のように用いるのは鉅との通用義。~

心とは何か。
心とは、感情であるか。考えであるか。
つまり、ロゴスであるか、パトスであるか。
「心」とは「意」とはちがう。
私たちのそれぞれの感情や考えとはちがうところに、心はあると、『字統』は教えている。

「生命力の根源」において、私たちは他の動物たちとどれほどちがっているのか。
たしかに、動物たちは「天」を知らないであろう。
ましてや「天」による「命」によって、私たちが生きていることなど、どれほど知ることができようか。
しかしながら、「生命力の根源」において。

「従心所欲」と「不踰矩」とが、逆接に解釈されていることが多いが、書き下しでも、もちろん本文でも、ストレートに接続されている。
順接といえば順接だが、そこに因果関係をはじめとした関係性は記されていない。

七十で生命力の根源に随従して四角い定規をはみ出さない。

四角い定規とは何だろう。
「天命」とは運命や宿命ではないと先に述べた。
「人々の中にありながら、人々の中の一人として何を為すべきか。
それが与えられたということではないだろうか。」
と私は考えた。

生命力の根源に従って生きるとは、生命力の根源を感得し、認知しなくてはあり得ない表出であろう。
「矩」、定規、枠。
しかしながら、生命にとっての枠とは、生きているということ以外にはあり得ない。

生命力の根源を感得し認知することで、生きている中にある自分を知る

「学」という限定された世界に生きる決意が、全生命の中にある自分を知るに至る。
ということなのだろうか。
志してから五十五年である。
「夫子の道は忠恕のみ」と曾子は言ったが、「恕」(ゆるす)とは、他者のみでなく自分をもゆるすことなくしては成り立たないだろう。
自他ともにゆるされる道とは、ともに生きている存在にしか過ぎないという認識なのではないだろうか。
そしてそれは、いとおしい。

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