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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

孟子

ネット上で様々な議論がなされているが、それらの多くはもはや意見というものではない、意見ならもっと理路整然と論をなさねばならず、あるいは感想であれば自己内省が微かな虹の色のように見えているはずだ。

ここに欠けているのは、これは自分が生きている世界の事象であるという強烈な認識である。
たとえば少年法の問題で言えば、自分の目の前にいる子ども/少年が、犯罪を起こし刑罰に処せられる。
あるいは、自分の目の前にいる人間や自分自身が、子ども/少年によって死傷せられる。
そういう世界に住んでおり、そこで自分が何をしておるのか、というごく当たり前の、もはや想像力ともいえないほどの感覚の欠如。

たぶん、こういう存在は昔も潜在的に多数いたのであろう。
それがIT技術によって目に見える形になったのであろう。
しかしながら、人々の意見/考えが顕在化するということは、それが社会にもたらす影響は、潜在的であった頃より大きいのかもしれない。
どうもこういうIT事象に接していると、IT化の罪悪の計り知れなさを思わざるを得ない。

紀元前のことになるが、孟軻は、子どもが井戸(当時の井戸には囲いはなかった)に今にも落ちそうになっているのを見てああっと思わないものはいないだろう、それが仁の心の発端であると言った。
性善説であれ性悪説であれ、それは我が心に問うものであり、我が心に針の先ほどの善性があるなら、それを信じて堅く守らねばならず、我が心に邪悪があれば、意を決してそれが外在化することを防がねばならない。
他者が善であるか悪であるかを議することが、性善や性悪の説ではないのである。

ITとは外と結ばれることであるが、自分自身もPCのディスプレイ上に外在化され、他から秘して内省するということが思いもよらないことになったことも、その罪悪の最も大きなもののひとつとして認識されねばならない。

てなことを言うと、お前もITの恩恵をこうむっているではないか、こうして書いているのが何よりの証拠だと言われるにちがいない。
そのとおりである。
針の先ほどの善があるならそれを信じて堅く守らねばならず、邪悪があれば意を決してそれが顕れることを防がねばならないのである。
これは「自分」の問題なのである
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無題

「子供が犯罪を犯す事」は果たして「子供が井戸に落ちそうになる事」でしょうか?

件の記事に寄せられているコメントは確かにいたずらめいたくだらないものもありますが、そうでないものもあります。
もし自分のお考えや合わない意見だからうんざりしているというのであれば、あなたはそもそも自分の意見をブログという反論可能な空間に投げ出すべきではない。
自分の見たいものだけを見ていては何もわかりませんよ。

ちなみに、少年犯罪が凶悪化しているという主張に対しては、統計上の事実との矛盾があるため懐疑的ではありますが、罪の重さなどの程度の問題はあるにせよ、少年に罪の責任を負ってもらうことはなんら社会正義に反するものではないと思いますよ。
今の子供たちは「子供なら人を殺しても名前は出ないし刑務所にも行かなくていい」って事位は知ってますし(インターネット万歳!ですね。これは皮肉です。)、子供たちに誤ったメッセージを大人が送る事にならないように、ある程度は厳しく対応するのが結局は子供たちのためだと思います。

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