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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

『下流志向』

内田樹『下流志向』。2週間ほど前に読了したのだが、なるほど、着地点はそこか。

2001年10月6日および2004年10月13日から18日にかけて、不定期日記(web版)で私は消費社会について論考しようとした。
そこで私が考えたことは次のようなことであった。

・「貨幣経済」は、「物」と「貨幣」が逆方向に移動することと言える。
・景気とはその移動の量と速度による。
(以上01年10月6日)
・私(たち)は、お金と物を交換することが好きなのではないか。
・そうした(お金と物を交換することが好きな)社会のモラルとは、お金と物の交換を阻害しないことにつきるのではないか。
・そのことをモラルの原点に据えれば、年齢による差異も、性別による差異も、そしてじつは貧富の差異(「貧富の差」ではない)も、なくなる。
その先に、情報化社会があり、情報化社会とは、情報がお金や物と同じあつかわれ方をする社会のことではないか。
・第1次・第2次産業従事者が人口の半数を割ったとき、それらの生産の場が、半数以上の人々の視野から霞んでいき、第1次・第2次産業を基盤としたモラル上では、ほとんど理解不能な状況になった。つまり、交換されるものが、生産上・消費上(=生命維持上)価値のあるものであるかどうかは、問題とされない。
・価値の有無を問わず、交換されることだけが、唯一の問題なのであり交換されることに価値が生じている。
・その交換においては、等価であるかどうかすら問題ではない。
・有り体に言えば、生産<->消費という体系の中に求められる価値ではない。
・生産の場が視野から外れていったとき、日本におとずれたのが「バブル経済」であり、「バブル経済」で経験したことは、物が動くことが経済だという理解である。
・「消費者」という位置づけは不思議だ。すべての人間が生産者ではないが、すべての人間が消費者なのだ。
・「消費者」とは、差別のない世界であり、消費する者のどのような属性にも拠ることなく、「消費者」と呼ばれる。
・法の下の平等と言うが、今は消費に基づいた平等である。では、消費の多寡による差別はあるのか。それはないのではないかという思いと、あるような気がするという予感のあいだにいる。
・「消費すること」を実行することが「消費者」の資格であり、それが1円であろうが、1000万円であろうが、本質的には変わらない状況にあるのではないか。
(以上04年10月13日〜18日)

自分の実感からだけにしては結構いい線行っていたようにも思うが、やはり資料の裏付けと、論考を進めていく根気に欠けていた。
そして何より、どこに着地すれば良かったのか、あまりにも漠然と、世相を描こうとしていた。

その点内田はさすが武闘家である。
相手を倒すことを目的においても、決してそれを目標にはしない。
目標にするのは、たとえば「体をかわす」とか「眉間を打つ」といった個別の目標なのである。
個別の目標のない目的は、じつは目的とは呼べないものなのである。
つまり04年の私は目標も目的も持たずに、考えるふりをしていただけなのだが、こうして内田先生に我が蒙を啓いてもらって、くやしいやらうれしいやら。
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