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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

表現について

表現することは、理解されることと対になるものだろうか。

理解されることを望まない表現は、意味がないという言説も、
つまり理解されなければ表現する意味はない、
ということは説得力を持つが、
「表現」も「理解」も、どちらもサ変複合動詞として使用されるならば、
行為そのものに、「表現」や「理解」の本質がある。

単純に、「スポーツ」と「観戦」に置きかえれば、スポーツする側にも、それを見て応援する側にも意味があり、
「伝える」「(伝えられたものを)理解する」することには、一次的な意味はない。

言葉や音楽は、「何か」を伝えるものではない表現を、形作ってきた。
伝える意図を持った表現も作ってきた。

伝えたり、伝わらなかったり、理解したり、理解できなかったり、誤解したり。
私は、アマチュアアスリートが、身体を動かすのを愛するように、言葉や音楽を使って何かを形作るのが、好きなだけだ。
砂いじりが好きな、子供なだけだ。

そこに何かの力がある場合もあれば、何もないこともある。
地形の作り出す景観以上のものではない。勝手に通り過ぎたり、感動していればよい。

いま、未曾有の言語表現時代だと思う。
何かを伝えるのが言語だと思っているが、言語は、じつは、自分のものではない。
誰ものものでもない何かが、私たちの間を流れて通り過ぎている。
それだけだろうと思う。
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「私たち」

ネットで見た何かの言葉に、
「私たち」とは何か、という(警戒的な)言葉があった。
私が「私たち」と言うときは、それは「増殖した私」である。
あんな私や、こんな私、泣いている私、怒っている私、笑っている私、何も考えていない私、
そんな「増殖した私」であって、
しかし、でも、「私」が「人類」や「人間」を代表しているような気がしているのかもしれない。
でも、私が「人間」一般を知ることができるのは、「私」を触ってみることでしかできないのかもしれない。


私が「コミュニケーション」とは何かと尋ねるとき

When I ask you what does "comunication" mean,what I want to receive from you as a resolt ?
私が「コミュニケーション」とは何かと尋ねるとき、私は何を答えとして欲しているのだろうか?
「コミュニケーション」という言葉の意味、つまり、語源から説き起こした意味だろうか。
それとも、「コミュニケーション」という人間の行為のことだろうか。

石の記憶

石に記憶はあるのか。

記憶とは自己と外部との接点における痕跡とするなら、
石の記憶とは、風や雨による浸食、その他の残す痕跡のことであろう。

ただ、石自体にはそれらの痕跡を認識する機能がない。

とすれば、記憶とは自己と外部との接点における痕跡を認識することであろう。

人間の場合、自分自身に対する記憶というものが存在し、
それは、自己を外部としてとらえているということになる。

この、自己を外部としてとらえるということは、「ことば」という道具によって可能になっているのである。

「ことば」という「もの」

私たち人間は、なぜ、「意識」とか「精神」、新しいところでは「クオリア」というものが「ある」と思うのだろうか。
猫もものを見、聞き、温度を感じ、味を知り、している。
私たち人間が、「意識」(etc.)があると思ってしまうのは、「ことば」があるからではないか。
もう少し正確に言えば、「ことば」を使う能力があるからではないか。

そこ、あるいはここに、何かがあると感知するのは、そこにある何かを「客体化」するから可能になるのであり、「客体化」に大きな役割を果たしているのが、「ことば」であると私は思う。

前回「ことば」について書いてから、次を書きつぐのにずいぶん手間がかかった。
「ことば」を「ことば」によって語るのは、ずいぶん喧しい作業だ。
まるでハウリングのように、本体が見えているのに、聴き分ける・近づくのに、手間がかかる。

「ことば」という「存在」

「ことば」というものは私たち人間にあらかじめ備わっている能力・機能のように考えられているフシがあるが、人間に備わっている能力・機能は、正確に言えば、「ことば」をあつかう能力であろう。

私たちは「ことば」で考え、「ことば」で認識を完了するから、ついつい「ことば」は私たちの中から、外に出ていくもの、あるいは逆には、他人の中から出てきたもの、のように考えていがちだが、「ことば」というものは、私たち人間に生まれつき備わっているものではない。

たとえば、食餌・排泄・呼吸・生殖・睡眠などといった能力・機能は、大抵の場合訓練される必要はないし、これらの能力・機能に関して、種族・歴史、あるいは個人の差はまずないと言って構わないだろう。
つまり、これらの能力・機能は、私たち人間に生まれつき備わっている能力・機能だからである。
ところが、「ことば」というものに関しては、ある期間の訓練がなければあつかう能力・機能が備わらないし、言語そのものが地域や歴史によって異なっている。

だから、「ことば」というものをあつかう能力・機能は私たちに生まれつき備わっていると言えるが、「ことば」というものそのものは生まれつきのものではない。
しいていえば、「ことば」とは「道具」の一種であると言っていいと思う。

クリスマス

イエスがなぜ十字架に架かったかを、新約聖書(マタイによる福音書)は次のように述べる。

マタイ 27:16
そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。  一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」  しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。  ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。  ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」  そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
 
私は、特にマタイ伝は、イエスを引き渡した「民衆」に悪意をもって書かれていると思うのだが(もちろんそれには相応の正当な理由があるのだが)、私はマタイの「悪意」について述べるつもりはない。
私が考えている(いた)のは、イエスを十字架に引き渡した「民衆」であるはずの私たちが、なぜイエスの生誕を喜び祝うのかということである。

イエスを十字架に引き渡した私たち(民衆)が、イエスの誕生を祝うというのは、生け贄の子羊の誕生を祝うことではないのか。
私たちの罪を負わせ、償わせる生け贄の誕生を祝うことの残酷さを、なぜ私たちは気づかないのか。
民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 
誕生を祝うことは、その「血の責任」であるのか。
「救い主」とは、そういう私たちの自分可愛さの言い逃れなのか。
ということが、この数年の私の疑問であった。
(この項続く)

セクシュアリティ

セクシュアリティ【sexuality】
性的特質。性的興味。性を意識させることやもの。(大辞林)

sexuality
狭義の性行為だけでなく、性と欲望にかかわる人間の活動全般を指す語。ただしこの語は「セックス」や「ジェンダー」と複雑に絡み合っており、厳密な定義は困難である。セックスは生物学レベルの営みを、ジェンダーは文化的性差を指すとされるが、セクシュアリティはそのどちらをも含み、生殖、快楽、恋愛、自己表現といった多様な領域にまたがっている。ミシェル・フーコーは『性の歴史Ⅰ 知への意志』Histoire de la sexualit; La volont de savoir(1976)において、性が隠されたものであるかのようにみえて、じつは誰もが自らの性を語ることにとりつかれ、それによって自己規定しているという矛盾した事態を指摘した。すなわち性をめぐる言説は、私的領域の中心にありながら高度に公的なものでもある。
一般にこの語が使われるのは「ホモセクシュアリティ」と「ヘテロセクシュアリティ」の区別においてであり、ジェンダーが男女の性差を指すのに対して、セクシュアリティは性的指向、つまり同性愛・異性愛の区別をまず問題にする。(日本大百科全書)

セクシュアリティが性器に帰納されるなら、私たちは、自分の持っている性器によって「傷つけられている」存在だと、言えるのかもしれない。
男性器を持っているがゆえに、男性としての振る舞いを(他者からも自己からも)強制され、女性器を持っているがゆえに、以下同文。

という命題による議論として、私はどこに立っているのだろう。

つまり、私は私の持っている性器によって、傷ついているのだろうか。
少なくとも、私は私の持っている性器によって、私が持っていない性器を持つ者の立場に立つことを、拒否されている存在だといってもよいのではないか。

私は私の持っていない性器を持つ者の立場に、立ちたいと思っているのか?

それより、私は私の持っている性器によって、私の持っていない性器を持つ者の立場を想像することに制限が加えられていることに、疎外感を持っているのではないか。
それは、私は私以外の何者にもなれないという疎外感と同じではないだろうか。

他者理解の限界は、自己理解の限界を、ただちに想像させる。
そして、自己理解の限界が、他者理解の限界を直感させることによって、私は限りなく循環する絶望に至る。

フェティシズム

私は、たとえばグラビア写真を見ていても、その背後にある、たとえば椅子やテーブル、壁、あるいは建物といったものに関心が移りやすい。
関心というより、それは心が吸い寄せられるといった、性質のものだ。陶酔といったものにやや近い。
それは山や川、草木といったものより、人造物であるように思える。
あたりまえの話だが、人間を物としては見ていない。
では金魚とか犬猫といった動物だったらどうだろう。
やはり金魚鉢の縁とか、首から垂れ下がったくさりや背後の犬小屋の屋根のペンキの色に心惹かれるような気がする。

フェティシズム [fetishism]
(1)呪物(じゆぶつ)崇拝。物神(ぶつしん)崇拝。
(2)〔心〕 異常性欲の一。異性の身体・衣類・所持品などの事物に対し、異常に執着・愛好する態度。
(大辞林)

wikipediaにも詳しい解説があるが、省略する。昨今の「フェチ」の用法は誤りであるとするが、そのことはこれから私が述べようとすることに何らかの排除をもたらしはすれ、正の加算とはならないからである。

今、私は「私」と書いた。正確にはパソコンのキーボードを叩いたのであるが。
いったいいつから私は「私」という文字を綴っているのであろうかと、私の脳みそは過去の方向へ吸引されていくようであった。
それはまるで「失われた時を求めて」のようである。

しかしながら、今日の私は興味が続いていかない。
言葉というフェティシズムに話はすぐには向かわない。

紙の面に鉛筆やペンで書いていた「私」と、こうしてパソコンのキーボードを叩いて映しだされる「私」との間に、何の区別も見いだせないのである。
ほんの10年前には違和を感じていたくせに。
なぜだろう。「慣れとは恐ろしい」というのだろうか。

ユダヤ教と、その継続者であるイスラム教は、厳密に神の概念から物性を排除した。
もうひとつの継承者であるはずのキリスト教は、その厳密さに欠ける。
そもそもイエスを神の一人子としたところから、その不徹底は始まる。
イエスは動き、語ったわけだから、イエスから物性を排除することはできない。
ムハンマドも同じように物性を持った人間という存在であった。
しかしムハンマドは神の言葉を預かる人という立場を貫いた。
イエスも語り、動いたのだが、イエスの言葉は弟子によって語り継がれただけで、戒律としてはきわめてゆるくなってしまった。実際に新約聖書を読めばわかる。
ゆるい戒律を自発的に守らせるには、語り手に権威を与えればよい。
こうして、アダムの食べたリンゴの囓りカスが歯の間に残るように、物性というものが、何かの拍子に舌の先にさわるのである。

しょうがない。
私は仏教と神道とキリスト教にしか触れずに生きてきたので、キリスト教の話しかできない。
仏教と神道は(たぶん)あまりにも身近すぎて、あるいはほとんど自分そのものでありすぎて、却って語れない。

しかしながら、キリスト教に残された物性というものは、ひょっとしたら付与されたものかもしれない。
つまり、私たち人間は物を相手にしなければ存在できない、フェティシスト(的)な存在なのである。
・・・・・なのではないかなあ。
物性の徹底的な排除も、その裏返しとも言える。

私はここで、性的倒錯としてのフェティシズムを考えようとしているのではない。
もちろんこの考えはたやすく性的倒錯としてのフェティシズムに到達するであろうが。

孟子

ネット上で様々な議論がなされているが、それらの多くはもはや意見というものではない、意見ならもっと理路整然と論をなさねばならず、あるいは感想であれば自己内省が微かな虹の色のように見えているはずだ。

ここに欠けているのは、これは自分が生きている世界の事象であるという強烈な認識である。
たとえば少年法の問題で言えば、自分の目の前にいる子ども/少年が、犯罪を起こし刑罰に処せられる。
あるいは、自分の目の前にいる人間や自分自身が、子ども/少年によって死傷せられる。
そういう世界に住んでおり、そこで自分が何をしておるのか、というごく当たり前の、もはや想像力ともいえないほどの感覚の欠如。

たぶん、こういう存在は昔も潜在的に多数いたのであろう。
それがIT技術によって目に見える形になったのであろう。
しかしながら、人々の意見/考えが顕在化するということは、それが社会にもたらす影響は、潜在的であった頃より大きいのかもしれない。
どうもこういうIT事象に接していると、IT化の罪悪の計り知れなさを思わざるを得ない。

紀元前のことになるが、孟軻は、子どもが井戸(当時の井戸には囲いはなかった)に今にも落ちそうになっているのを見てああっと思わないものはいないだろう、それが仁の心の発端であると言った。
性善説であれ性悪説であれ、それは我が心に問うものであり、我が心に針の先ほどの善性があるなら、それを信じて堅く守らねばならず、我が心に邪悪があれば、意を決してそれが外在化することを防がねばならない。
他者が善であるか悪であるかを議することが、性善や性悪の説ではないのである。

ITとは外と結ばれることであるが、自分自身もPCのディスプレイ上に外在化され、他から秘して内省するということが思いもよらないことになったことも、その罪悪の最も大きなもののひとつとして認識されねばならない。

てなことを言うと、お前もITの恩恵をこうむっているではないか、こうして書いているのが何よりの証拠だと言われるにちがいない。
そのとおりである。
針の先ほどの善があるならそれを信じて堅く守らねばならず、邪悪があれば意を決してそれが顕れることを防がねばならないのである。
これは「自分」の問題なのである

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