キャノンがデジカメの生産過程を全機械化するとの報道が、今朝あった。
機械化によって、人間の生活が楽になるというのは、嘘。
産業革命によってできあがった今の社会が抱えているのは、
生産手段を持っている者がいちばん得をするという構造。
働かなくても機械が代わりに働いてくれるというのは、機械を持っている者だけ。
私たち人間は、働きたいのである、はずだ。
お金はコミュニケーションの手段であるので、
働く機会を与えられずにお金がない者は、会話さえできない。
考えてごらん。
PCやスマホを持っていない者は、コミュニケーション手段がないと見なされているのが、今ではないか?
でもね、コミュニケーションって何?
おまえは仲間だよって、言うこと。
じゃないのかな?
今の日本は、働く機会の有無を自己責任ということにして、コミュニケーションをブレイクダウンしている。
でもね、本当のコミュニケーションは、
たとえばこの私のようにブログに書き込むことだけではなく、
いやPCがなければなされないような脆弱なものではなく、
たとえば、息づかいを交換しあうような、そんなところで成り立っている。
それは確実に、毎日、いたるところで。
お金にもよらず、
たとえばまなざしの交換というようなもので、すべての街角で、あぜ道で、
森や林の中で、波頭を渡る小舟どうしの上で、交差点ですれ違う車の運転席で、
ジャングルの中で交わされる、カタツムリとジャガーとのすれ違いのように、
なされているのが、私たちのコミュニケーション。
まなざしは消え、音声は去り、皮膚感覚は記憶に化石するが、
お金は・文字は・私たちの子どもは・残る。
それだけが私たちのコミュニケーションの実態ではないでしょう。
コミュニケーションが残し、いつまでも消えないものは、時間の二乗に反比例して減衰する音声であり、
大脳皮質がよみがえらせる手触りであり、
間脳が意識のないところで発生させるまなざしへの反応でありましょう?
コミュニケーション能力とは、お金を発生させる能力ではなく。
お金なんて、どうせ天下の回りもの、一つ財布の中身を家族がどう使うかだけのもの。
コミュニケーション能力とは、私がここにこうしていて、あなたがそこにそうしていることを、
交換しあう能力のこと。
ことばも、お金も、愛情も、コミュニケーションを保証するものではない。
あなたがそこにいて、私がここにいることを、交換しあうこと。
そのための手段(メディア)は、無数にある。
また明日会おう。
明後日も会おう。
たぶん、百年後も、千年後も、私とあなたは、会うはずだ。
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