世界はフラクタルな構造をもつと仮定してみると、一部が全体を表すことになる。
自然の中にはフラクタル構造は理論上あり得ないということだが、
ということは、フラクタル構造は人間の何かを表していることになる。
政党が、多数による決定を絶対のものとし、異質なものを排除する(という全体主義的傾向を示す)なら、
それは、その政党の属する国家そのものの構造を表していると言えるのではないか。
機構(ハード)としての国家のみならず、人の集まり(ソフト)としての国家も、
嫌なら出て行けばいい、やめればいい、という言説で成り立っている。
嫌だから出て行くというのは、出て行く側の論理(りくつ)であり、
それが残る側から発せられるのは排除の論理以外の何ものでもない。
異質な存在がある可能性を認め、それがどう異質なのかを理解することにつとめ、
できうる限り共存の方法を探ることが、
私たちが採用してきた(民主主義)という方法であり、
話し合い、多数決というのは、その道具に過ぎない。
話し合いや多数決という行為が、民主主義を保証するのではない。
美味しい料理を作るのに必要な包丁も、殺人の道具になる。
人を殺しておいて、これは包丁だから命を奪う意図はなかったという強弁は通らないだろう。
リスク社会とは、リスク(つまり「損」)を中心的に展開する社会であり、
それって、まったくの後ろ向き社会ではないか。
「損して得取れ」という言葉もあるが、
差し引きゼロあたりをうろうろするくらいが、私たちがいちばん幸福を感じるところではないか。
リスクゼロであることが、私たちの幸福感を満足させないことは、もうわかっている。
リスクゼロは、リスクの側へ転げ落ちる恐怖感によってなりっているのだから。
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