体罰→自殺 事件で、教育/子育て論議が盛んであるが、
育てられる側の論議にはいっこうにならない。
それはそうで、育てる方の満足のみで、教育論は成立しているからだし、
それはつまり、どのような人間が必要かというのは、圧倒的年長者たちの立場でしか議論できないからだ。
教育、子育てというのは、枠にはめることであり、
たとえ可能性をのばすといっても、その可能性は『今』の価値観に合目的性がなければ
それは可能性とは呼ばれない。
教育の目的とはなにか。
多くの人間にとって、それは、自分にとって満足である~気にさわらない・範囲の人間になってくれることなのではないか。
体罰だけでなく、教育の過程が気に入らなければ、裁判になってもよい。
しかし、それは、教育の本質的議論にはならない。
いよいよ、「教育=サービス」の価値観の中に入り込んでいく。
「教育=サービス」論を支えるのは、価値観の普遍性である。
価値観の変化が余儀なくされたときに、
「教育=サービス」の価値観が否定されたときに、
私たちは高価値である観念に添うような教育を求めるのであろうか。
人類普遍の価値というものはない。
そういう価値観に、私たちは到達した。
しかし、人類普遍の価値が、それでも残存しているとしたら、
それは、生きている、という現実を延長する意志のことではないか。
宗教や、大東亜戦争末期の特攻や、イスラムのジーハードのように、
死の向こうに生の延長を実現しようとする価値観も存在する。
これから生きていく者がこれから持つであろう価値観ではなく、
すでに生きてきた者が予測する、過去の延長である未来の予測上の価値観を
与え続けることが、教育なのであろう。
とすれば、予測が過去の蓄積の上だけに成り立っているのなら、
予測が外れることを予測した「ゆるさ」がある方が、
予測自体の精度は高まる。
そう考えると、教育の本質は、子守、あるいは、押しつけ、の両極の間をぶらぶらしている不定形であるのが
その本来的姿なのかもしれない。
孔子は、渇かぬ馬に水は飲ませられないといったが、
同じ未来予測を持たない年少者に、年長者は何を与えられるだろうか。
井戸の掘り方?
水の貴重さ?
今すでにのどが癒され続けている者に、切実さを持って与えることができないなら、
同時代的要請に従って強要することしか、
「教育=サービス」論的世界での教師の「お仕事」はないであろう。
「教育=聖職」とは声高に言われなくなって久しいが、
「聖職」とは、誰にでもなる資格があり、必ず誰かしなければならない仕事を、
誰かが受け持っているということであり、
それはサクリファイスの思想であり、
それだからこそ「聖別」されているのである。
かつて、教職が尊敬されていた時代は、冷静に考えれば、ないことは明らかである。
そういった時代は、あこがれが作り上げた過去の虚像である。
(「師の恩」が富裕より清貧に基づいていることを思い出せばよい)
サクリファイスが、サクリファイスであることを根拠に、
清浄や高潔を強要され、
またそうであることを自らに強要することで、サクリファイスであることを意味づけようとしてきたである。
サクリファイスは「聖」であり、それ故放埒が許され、またその反面賤視されてきたのである。
「教育=サービス」の価値観と同居できる価値観であるのかどうか。
たぶん同居できないであろう。
「教育」は常に、家庭から離れたところで行われてきた。
「家庭」教育と、ことさらに言わねばならないことが、それを示している。
教育は常に、家庭にすり寄りながら、家庭を裏切ってきた。
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