忍者ブログ

web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

宗教〜定義(?)

宗教をどう定義するか。
Wikipediaでは、このように説明されている。
自分としては、従来自分がとっていたような字義による説明etc.をするつもりはない。
定義の幅の最低限としては、「信じることの体系」という前回述べた定義で充分な気もする。
それでは不十分でもありながら、それでもよいと感じているのは、
> 現代日本人は宗教をきちんと定義づけられていないように
考えているからである。
この定義にもう少しだけ言葉を加えれば、
「超越的だと自分たちが考え/感じているもの」を信じる体系。ということになる。

そこで私たちに複雑さを加える要素として、「超越的(な存在)」の定義が俎上にのぼることになる。
しかしながら、「超越的(な存在)」とは、じつは「信じることの体系」によって定義づけられるものであるから、こういった物言い(言説)は循環計算を強いることになり、歩みは先に進まないように思える。
それで私は宗教を、「信じることの体系」としてのみ措定してみることから始めてみる。
つまりそこには「科学という宗教」というような一時代前的な言説の中に私の片足(あるいはそれ以上)が踏みとどまっていることを、否定することに傾きながら否定しきれない予感の中に私がいることに他ならないことの表明でもある。
でもあるのだが、「現代の信仰」というふうに言葉を変えてみると、私たちが思っている「宗教」の定義=意味がどれほど曖昧であるかにつきあたっていく。

やはりわたしは字義的な説明をせねばならないのだろうか。
2004年の「夏の旅」で考察/感想したような、「信仰」<−>「信心」という命題にゆきつくのかもしれない。
しかし、そうした命題が何かを説明してくれることに、何の期待も持てないでいる。
それよりなにより、説明することが「信じることの体系」を解き明かすことになることにも、懐疑的である。
なんだか小林秀雄的ラビリンスにいることを、カレイドスコープ中の住人のように楽しんでいるようでもある。

つまり私が宗教を「信じることの体系」と措定していること自体が、現代日本の宗教の定義を代弁している。というより、自分がその中にどっぷりとつかっている現代日本を客体化できていないことを証明している。
今は、とりあえず、「宗教」という迷路の中にいる、「現代日本人」としての自分を認識しているしかないように思う。
この項、さらに続く。
PR

宗教〜シャーマン

宗教について語るとき、宗教を信じるか信じないかという議論になるのは、特異な例になるのかもしれない。
多くの場合、「××を信じる/信じない」という議論になるのだろうか。××は、創始者の名であったり、信仰の対象であったり。
とすれば、「宗教を信じる/信じない」というのは、「宗教教」/「非宗教教」の議論になる。

宗教を語るときに不透明に複雑さをもたらすのは、宗教が「信じることの体系」だからではないか。
つまり有り体に言えば、「宗教」を信じないというのは、「宗教を信じない」を信じていることになるからではないか。

多くの場合、現代日本人は宗教をきちんと定義づけられていないように思える。
と、この項を書くにあたって「アメーバニュース」でコメントが多かった美輪明宏と江原啓之の項目について、考えたからである。

はっきり言って、美輪明宏や江原啓之は宗教ではない。
あれは「口寄せ」である。ある種の「霊媒師」である。
霊魂が存在するかという問題に関しては、議論する必要もあるかと思うが、どう考えても霊魂は存在しない。
存在というのは物理的に確認できることに対して定義されるものであって、信じるかどうかという事柄に対してなされるものではない。
存在とは、空間と時間を占有するもののみに与えられる認識であって、あると信じる(だけの)ものは、存在とは言えない。
真摯なクリスチャンや仏教徒etc.は、「神」や「仏」が「いる」とは決して言わない。

彼ら(彼女と彼?)は優れたシャーマンであると、私は信じる。
吉本隆明の『共同幻想論』の中に確かあったと思うが、シャーマンは共同体の無意識の認識に自己の無意識を同化させる技術を(無意識に)身につけるのである。
恐山のイタコがあれほどまでの修行をし、多くの人々が訪れ故人の言葉をその口から聞こうとするのは、イタコの無意識の認識と自らの無意識の認識とが(かなりの部分で)一致すると感じるからである。
シャーマンに求められる技術とは、じつにそこなのである。
自分のもとに訪れるものが何を求めているのか、それを知るものが、シャーマンとして認められるのである。
じつに簡単な話で、恐山に登る者は、故人となった家族や知人と話がしたいのである。
その時点ですでに何が求められているかは、イタコにはすべて自明のことなのである。
あとは個別に接したときの人間的感触から、話題を選べばよい。

私はシャーマンを否定しない。
それは高度な修行を必要とする。
日常生活においても、人が何を言っているのかわからない者は、あまりにたくさんいるではないか。
わずかな息づかいや雰囲気から、相手が何を言おうとしているのか、求めているのかを知ることは、決して容易なことではない。
そして、その光景は、第三者から見れば、むしろ理解不能な滑稽な場面に見えたり、逆に不可解であるがゆえに高度な精神的瞬間に思えたりするのである。
真実の光景は、シャーマンと依頼者との一人称的関係とでも言うべき関係の中でしか、見ることはできないのである。
精神科医やカウンセラーの多くが、クライアントの悩みを背負ってしまいがちになることと、まったく同様のことなのである。
したがって、クライアントが理解不能な「紀元前10世紀のツンドラ地方の××族の誰それがあなたの前世だ」とは言えない(言わないのではなく)のである。
あくまでもクライアントの中にあるものに寄り添うことが、シャーマンとして資質なのである。

さて、シャーマンについての感想を述べすぎた。この項、つづく。

カレンダー

12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[05/31 あそんでる人]

最新記事

(09/29)
(07/22)
(05/14)
(03/11)
(03/09)

最新TB

プロフィール

HN:
florva new noise maker
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(03/31)
(03/31)
(04/01)
(04/02)
(04/03)

P R

カウンター