宗教について語るとき、宗教を信じるか信じないかという議論になるのは、特異な例になるのかもしれない。
多くの場合、「××を信じる/信じない」という議論になるのだろうか。××は、創始者の名であったり、信仰の対象であったり。
とすれば、「宗教を信じる/信じない」というのは、「宗教教」/「非宗教教」の議論になる。
宗教を語るときに不透明に複雑さをもたらすのは、宗教が「信じることの体系」だからではないか。
つまり有り体に言えば、「宗教」を信じないというのは、「宗教を信じない」を信じていることになるからではないか。
多くの場合、現代日本人は宗教をきちんと定義づけられていないように思える。
と、この項を書くにあたって「
アメーバニュース」でコメントが多かった美輪明宏と江原啓之の項目について、考えたからである。
はっきり言って、美輪明宏や江原啓之は宗教ではない。
あれは「口寄せ」である。ある種の「霊媒師」である。
霊魂が存在するかという問題に関しては、議論する必要もあるかと思うが、どう考えても霊魂は存在しない。
存在というのは物理的に確認できることに対して定義されるものであって、信じるかどうかという事柄に対してなされるものではない。
存在とは、空間と時間を占有するもののみに与えられる認識であって、あると信じる(だけの)ものは、存在とは言えない。
真摯なクリスチャンや仏教徒etc.は、「神」や「仏」が「いる」とは決して言わない。
彼ら(彼女と彼?)は優れたシャーマンであると、私は信じる。
吉本隆明の『共同幻想論』の中に確かあったと思うが、シャーマンは共同体の無意識の認識に自己の無意識を同化させる技術を(無意識に)身につけるのである。
恐山のイタコがあれほどまでの修行をし、多くの人々が訪れ故人の言葉をその口から聞こうとするのは、イタコの無意識の認識と自らの無意識の認識とが(かなりの部分で)一致すると感じるからである。
シャーマンに求められる技術とは、じつにそこなのである。
自分のもとに訪れるものが何を求めているのか、それを知るものが、シャーマンとして認められるのである。
じつに簡単な話で、恐山に登る者は、故人となった家族や知人と話がしたいのである。
その時点ですでに何が求められているかは、イタコにはすべて自明のことなのである。
あとは個別に接したときの人間的感触から、話題を選べばよい。
私はシャーマンを否定しない。
それは高度な修行を必要とする。
日常生活においても、人が何を言っているのかわからない者は、あまりにたくさんいるではないか。
わずかな息づかいや雰囲気から、相手が何を言おうとしているのか、求めているのかを知ることは、決して容易なことではない。
そして、その光景は、第三者から見れば、むしろ理解不能な滑稽な場面に見えたり、逆に不可解であるがゆえに高度な精神的瞬間に思えたりするのである。
真実の光景は、シャーマンと依頼者との一人称的関係とでも言うべき関係の中でしか、見ることはできないのである。
精神科医やカウンセラーの多くが、クライアントの悩みを背負ってしまいがちになることと、まったく同様のことなのである。
したがって、クライアントが理解不能な「紀元前10世紀のツンドラ地方の××族の誰それがあなたの前世だ」とは言えない(言わないのではなく)のである。
あくまでもクライアントの中にあるものに寄り添うことが、シャーマンとして資質なのである。
さて、シャーマンについての感想を述べすぎた。この項、つづく。
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