宗教をどう定義するか。
Wikipediaでは、
このように説明されている。
自分としては、従来自分がとっていたような字義による説明etc.をするつもりはない。
定義の幅の最低限としては、「信じることの体系」という前回述べた定義で充分な気もする。
それでは不十分でもありながら、それでもよいと感じているのは、
> 現代日本人は宗教をきちんと定義づけられていないように
考えているからである。
この定義にもう少しだけ言葉を加えれば、
「超越的だと自分たちが考え/感じているもの」を信じる体系。ということになる。
そこで私たちに複雑さを加える要素として、「超越的(な存在)」の定義が俎上にのぼることになる。
しかしながら、「超越的(な存在)」とは、じつは「信じることの体系」によって定義づけられるものであるから、こういった物言い(言説)は循環計算を強いることになり、歩みは先に進まないように思える。
それで私は宗教を、「信じることの体系」としてのみ措定してみることから始めてみる。
つまりそこには「科学という宗教」というような一時代前的な言説の中に私の片足(あるいはそれ以上)が踏みとどまっていることを、否定することに傾きながら否定しきれない予感の中に私がいることに他ならないことの表明でもある。
でもあるのだが、「現代の信仰」というふうに言葉を変えてみると、私たちが思っている「宗教」の定義=意味がどれほど曖昧であるかにつきあたっていく。
やはりわたしは字義的な説明をせねばならないのだろうか。
2004年の「夏の旅」で
考察/感想したような、「信仰」<−>「信心」という命題にゆきつくのかもしれない。
しかし、そうした命題が何かを説明してくれることに、何の期待も持てないでいる。
それよりなにより、説明することが「信じることの体系」を解き明かすことになることにも、懐疑的である。
なんだか小林秀雄的ラビリンスにいることを、カレイドスコープ中の住人のように楽しんでいるようでもある。
つまり私が宗教を「信じることの体系」と措定していること自体が、現代日本の宗教の定義を代弁している。というより、自分がその中にどっぷりとつかっている現代日本を客体化できていないことを証明している。
今は、とりあえず、
「宗教」という迷路の中にいる、「現代日本人」としての自分を認識しているしかないように思う。
この項、さらに続く。
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