見えないものは見えない。見えているものも見えない。
久しぶりに「お好み焼きじゅうじゅう」に行った。
正午のNHKニュースをやっていた。
先客にはおばちゃんが三人。
基地問題について、上手くいっていないことをニュースが告げると、おばちゃんの中から「はっきり言えばいいのに」「テロ・・・」という言葉が聞こえてきた。
自分はできるだけそういう話題を外で表明したり触れたりしないようにというスタンスが自然に出来上がっているのか、寝起きだったためか、断片的にしか記憶がよみがえらないのだが。
鳩山由紀夫がなした対米政策のうちで、このことは成功のうちに入るのであろうか。
あってもないことにしてきた、米軍基地問題が、お好み焼き屋のおばちゃん客の話題になったことだけでも、鳩山の狙いが当たったことの表れかもしれない。
テレビでは「龍馬伝」が結構な視聴率らしい。
まさかだが、「攘夷」なのかもしれない。
龍馬は実力行使的な攘夷は無効だとしていたのだが。
その周辺の(武市半平太とか)人物が魅力的に描かれているためにか、攘夷は正当な心情であるかのように思う人も多いかと思う。
米軍進駐が65年間つづいていることは、これまで話題としてはタブーだったのかもしれない。
お好み焼き屋の客のおばちゃんたちも私とそう離れていない年齢である。
対米(反米)感情が脈々と続いてきたのは、庶民のまさに鉄板周辺の話題としては、事実である。
その感情に対してどういうスタンスで語ってきたかの変遷はある。
そこを、一挙に「攘夷」的にもっていったとすれば、支持率の低さは、逆にそちらになだれこませる何らかの魅力的ゆるさを、私たちに与えているような気がする。
そして、私自身は、それでいいように思っている。
「攘夷(テロ)」決行が、本当になされるのか、どういう形でなされるのか。
東アジアにおいて、韓国から、フィリピンから、米軍が撤収したが日本からは出ていかないのは、当然である。
日本は「敵国」だからである。
米軍にとっての「対アジア政策」とは、日本が敵対しないことであり、日本を敵対させない最良の方策が、軍事的脅威であることは明らかである。
こうした生活感覚の中から、それが抽象された形で浮上するのが「天皇」なのであろう。
それが生活「感覚」である以上、生活の実態が喪失されても、感覚が残ればよい。
まさに象徴としての「天皇」とは、そこにある。
私が私としてここに生きていたという感覚を残すものは、「天皇」という制度であり、実体であり、記憶なのではないか。
かくほどに、人間の実生活が脅かされたときに、人間が欲するものとは、自己の存続なのであろう。
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