見えないものは見えない。見えているものも見えない。
去年のことだが、妻と町内を歩いていると、大胆な顔の模様の猫に出会った。
ひそかに「ピカソ」と名付けたのだが、それ以来見ることはない。
元気でいるのだろうか。
「自分の欠点」とは何だろうか。
少なくとも、ある点が欠点であると自分で認めるということは、自分を客体化しているはずである。
ということは、「欠点」とは自分が他人に対して、認めることができない/許すことができないと感じている、何らかの性行ということになろう。
とすれば、自分を許容できれば、他人を許容できるはずだ。
「自分を愛するように、人を愛する」とはそういうことだと思う。
同時にそれは、他人を許容することは自分を許容することでもある。
・・・・私は自分に甘いのか?
たぶんそうだろう。
私が愛してきた人たちは、私が好きだと思うところを自分自身では嫌っていた。
たぶんそれは、自分以外の人たちから、それが欠点だと教わったからだろう。
「憎しみの連鎖」とは、実にこんなところに存在しているのである。
顔の造作について言っても、鼻の高低とか、歯並びとか、チャーミングポイントは他人と異なっているところなのに、他人と異なっていることが欠点だと思ってしまう。
いくらか腹を満たすだけの食事と、少しだけ脳みそをしびれさせるお酒があれば、幸せではないか。
たぶん私は欠点だらけの人間なのだろう。
でも、欠点だけをみていても、酒は美味くならない。
他人を悪く言わないことは、母の無言の遺言であったが、ありがたいことだ。
実行できているわけではないが。
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