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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

キリスト教とお金

 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、““霊””が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。(使徒言行録8章9~25節)

新約聖書を読むと、初期キリスト教団が金を敵(かたき)にしていた様子がわかるし、魔術(手品)のタネを金で買っていたのであろうことも、わかる。
なにより、お金が力を持っていることが、2000年前と現代とさほど変わらないことに軽い驚きを覚える。
ひょっとしたら、新約聖書に登場してくる多くの病人は、この貨幣経済に否応なく飲み込まれた被害者なのではないかとさえ、思えてくる。

貨幣の起源を探ってみるが、短日では確実なことはわからなかった。
貨幣の起源説のほとんどが、貨幣の機能の説明なのである。
物物交換から貨幣経済へという経済発達史が考えられるが、
物物交換に必要なものは、「等価」という概念である。
何匹かの魚が、何個かのイモと「同じ価値」だと言うとき、その価値とは何によって計られるものなのか。
労働時間? 必要度?
食べ物どうしなら、カロリー? それによって養われる人数や日数?

言語の起源が特定できないのは、なんとなくであれ納得できそうであるが、
言語と貨幣は人間の持つ同じ特性によって発生したのではないか。

つまり、「そのもの」でないのに、「そのもの」であるかのようにふるまう、という特性である。
「そのもの」でないものを使うことで、「そのもの」を使っているような錯覚を覚える。
その錯覚が、私たちに快感をもたらすのではないか。

私は、物物交換は貨幣制度の後に生まれたと考えているが、それはどうでもいい。
何匹かの魚が何個かのイモと交換可能であるということは、魚やイモ「そのもの」の背後に、「そのもの」ではなくて「価値」と呼ばれるなにものかがあるということである。
それは言葉においては「意味」と呼ばれるものと同意である。

「最初に言葉があった。言葉は神であった。」という聖書の文言は、
「言葉」vs「貨幣」といった同じ構造を持つものの対立における、宣言だと読んでよいだろう。
同じ構造、つまり同じ力を持つもののうち、我々は「言葉」を力として認めると。

貨幣の起源、つまり機能、として、権力の象徴というのがある。
いくら個人が貨幣を発行したところで、それはニセ金としてしか認められず、権力から罰せられる。
言葉は、それを発したところで、ひとまずは罰せられることはない。
言葉を発することは権力に属するものではないからだ。

権力は言葉を支配しようとしてきた。
あまり問題にされていないようなのだが、秦の始皇帝がおこなった政策の中に、漢字の統一というのがある。
統一したということは、それまではてんでんばらばらに文字(=言葉)が造られていたということであろう。
表記から始まって、言語現象は為政者の、そして為政者におもねる人々にとって、古今変わらぬ問題なのである。

キリスト教は、「貨幣」と「言語」のうち、「言語」をとった。
言語は現世の権力には決して支配されない。
貨幣は、つきつめれば「物」である。
一円硬貨はアルミニウム、一万円紙幣は紙。
言葉は「音波」であり、紙というものに染みついたインクの「シミ」である。

初期キリスト教団にとって、「言葉」以外に自由にできるものはなかったはずである。
だから彼らが「言葉」を選び取ったのは、無理からぬ流れであったのであろう。
しかしそれは、仕方なくではなく、したたかな実感のもとで選び取ったのであろうと思う。
そして2000年後の世界に住む私たちも、「言葉」vs「貨幣」の同意対立の中で揺れ動かざるを得ないのである。
しかし、その対立の振幅は、私たちが思っているほど広くはないのではないか。
「言葉」と「貨幣」は正反対のものではなく、同じ方角を指し示しているのである。
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