見えないものは見えない。見えているものも見えない。
「道具」は私たちに夢を見させる。
たとえば、車を持てば、F1レーサーにでもなったつもりになることができる。
PCを持てば?
PCの、特にコミュニケーション機能に限ってみれば、
それは言葉に、あるいは言葉のみに、依拠している。
PCを持てば、私たちは、言葉を綴る人間、作家にでもなったつもりになることができる。
できる、は、それを容易に通り越す。
キーボドを打つだけで、私たちは作家になっている。
しかしそれは、PC以前の作家とは、多く違っているはずだ。
それでも私たちは、言葉によって我が身を紡ぐ人たちと、それほど違わない所にいるという夢をみている。
それほどPCの機能が、私たちの願望に沿っているということだろう。
私たちは「作家」ではない。
だから「作家」ほどに、言葉の持つ力(攻撃性)に自覚的でない。
夢とは、私たちに無自覚であることを強いる装置である。
そしてそれは、私たちに快楽の中にいることを強いる装置でもある。
その快楽や無自覚が、自分ではないもの、によってもたらされていることに無自覚であることを、
私たちは知っているのだろうか?
夢がいつまでも夢であることを、私たちは望む。
それが夢であることを、私たちはいつでも知っているのに。
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