イエスがなぜ十字架に架かったかを、新約聖書(マタイによる福音書)は次のように述べる。
マタイ 27:16
そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
私は、特にマタイ伝は、イエスを引き渡した「民衆」に悪意をもって書かれていると思うのだが(もちろんそれには相応の正当な理由があるのだが)、私はマタイの「悪意」について述べるつもりはない。
私が考えている(いた)のは、イエスを十字架に引き渡した「民衆」であるはずの私たちが、なぜイエスの生誕を喜び祝うのかということである。
イエスを十字架に引き渡した私たち(民衆)が、イエスの誕生を祝うというのは、生け贄の子羊の誕生を祝うことではないのか。
私たちの罪を負わせ、償わせる生け贄の誕生を祝うことの残酷さを、なぜ私たちは気づかないのか。
民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
誕生を祝うことは、その「血の責任」であるのか。
「救い主」とは、そういう私たちの自分可愛さの言い逃れなのか。
ということが、この数年の私の疑問であった。
(この項続く)
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