あまり広がりもなく、深考もせずに書くので、どうかと思うが。
普天間から辺野古へアメリカ軍基地を移動するのは、いっぱいいっぱいの棚の上の塩壺を右端から左端へ動かすに過ぎない。という個人的感想がある。
いや、右端だったらコンロの上に落ちたら危ないが、左端だったらゴミ箱に落ちるだけだからまだしも安全だ。という議論もある。
もしこれが、自衛隊基地だったらどうなのか。
戦後沖縄はアメリカ軍の統治下に置かれ、「本土復帰」しても状況は変わらなかったと言っていいと思う。
現在の安倍政権は何を目論んでいるのか。
集団的自衛権といい、基地問題といい、これらの事象が日本の全き独立にどれほど関与しているのか、いまだはっきりしてこない。
安倍政権は、あるいは安倍晋三自身は、日本の完全独立を目論んでいるのか。
右端の塩壺を左端へ動かすことにある意味が、見えてこない。
問題は、棚がいっぱいいっぱいであることではないのか。
沖縄の反対論は、日本の独立が見えてこない、アメリカ軍統治が戦後70年経っても続いていることへの潜在的感情に基づいているのではないか。
「本土」にいる私には、基地移転反対の声しか伝わってこないが、某国陰謀論はともかく、沖縄は日本であり、日本であれば日本が守るのが筋ということだろう。
「本土」にいれば、アメリカ軍統治の実感は遠くなってしまっているが、実際の制空権、訓練空域等、実際にはアメリカ軍統治は続いているとしてよいと思える。
沖縄はそのアメリカ軍統治の密度が高いだけに、敏感に感じざるを得ないのではないか。
軍事的戦略的地理条件もあるが、日本全土のアメリカ軍統治の密度を均一にしたとき、サンフランシスコ条約で日本が再独立したという嘘がさらけ出されるのを、政権は恐れているのではないか。
アメリカは太平洋戦争終結後から、日本を文化的にもアメリカの属州に化そうとしてきたが、どうもそれはうまくいっていない。
確かに演歌はニューミュージックに駆逐され、大相撲は芸能からスポーツへと位置づけが変わったかのように見えるが、日本人・日本の文化によって育った人々のメンタリティは、実はほとんど変わっていないと思える。
ここから、大衆歌のニューミュージック以前・以後の対比から、そのことについて論考する。
さらに、安保反対運動の奇妙なねじれに対する個人的感想も述べてみる。
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