8月13日(月)晴(続き)そこから少し行って左折すると浪速図書館があり、その先に敷津一丁目に鴎町公園がある。
そこに折口信夫文学碑がある。
道頓堀、戎橋筋の人混みは嘘のように、人もまばらである。
17:10。少々荒れた感じのする公園内に、数人があちらこちらに涼を取っているのか憩っているのか。
犬を連れて散歩してする人たちも、三々五々やって来る。
釈迢空・折口信夫の短歌に触れたのは、中学2年の国語の授業だった。
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
釈迢空というと紫の色を思い出すのは、この歌のせいなのだろう。
1887年(明治20年)2月11日、大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西)に生れる。父秀太郎、母こう。七男二女の第七子、五男にあたる。生家は生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた
文学碑には、「十日戎」と題されて
ほい籠を待ちこぞり居る 人なかに、
おのづから
われも
待ちごゝろなる
の、『大阪詠物集』からの作が、二行に改められて彫ってあり、つづけて「増井の清水の感覚」の一文が彫ってある。
ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ
鶏(トリ)の子の ひろき屋庭に出でゐるが 夕焼けどきを過ぎて さびしも
あまたゐる山羊みな鳴きて 喧(カマビス)しきが、ひた寂びしもよ。島人の宿に
葛の花の歌は、踏まれてみずみずしい色を沁ませた花びらから、自分より前にここを歩いた人があったのかと推測しているのではない。
葛の花を踏んで通った人の姿を、まざまざと目前に見ているのである。
だからこそ「行きし人あり」と言い切っている。それは、自分の直前にこの道を行った人でもあり、太古この道を行った人でもよい。
鶏(トリ)の子の歌の「さびしも」という結句は、親鳥をなくした雛を哀れと思うのでもなく、薄暮の庭に親のいるときと同じようにしている雛鳥の思いと同化している。
そして、たくさんの山羊の鳴き声のやかましい響きのなかに、山羊たちの思いと一体化する。
それは「悲し」でも「哀れ」といったものごとを自分と相手と対象化する語ではなく、何も知らぬかのような、それでいてすべてを知っているような思い、「さびし」でなくてはならない。
文学碑のほい籠の歌も、「おのづから われも」と自覚のないままに、ある一つの思いへと、まるで睡眠へと引きずり込まれるように落ちていく心性のもと描かれている。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
アララギ派の巨人、斎藤茂吉は「観照」を主唱した。
観照の説は、対象と自我との一致・一如を唱えるが、
たとえば茂吉の
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり /『赤光』
などは、自注によれば、母親の臨終の時そこに燕がいたと言うだけである。
もちろんその「言うだけ」というのが肝要で、そこにあるがままを、自分の見たままを描きながら、そこに一個の世界を出現せしめるのが「観照」である。
茂吉が目前の世界をそのまま描き取るのに対して、迢空は対象への没入がいかにも激しい。
迢空は己の性質に関してこのように詠んでいる。
いまだ わが ものに寂びしむさがやまず。沖の小島にひとり遊びて
釈迢空は取り憑かれやすい体質(憑依体質)だったように思える。
一見「見たまま」であるが、その風景中の一風物への没入ぶりは「ものに寂びしむ」というごとくである。
「寂びしむ」とは寂々としたかそけき様相であるが、本人が「いまだ~さがやまず」というように激しいものであったのである。
また、日本民俗学の祖とされる柳田国男も憑依体質だったようだが、柳田がおもに人事に移入したのに対して、釈迢空・折口信夫の場合、対象が動植物に及び、その点独自であると言って差し支えないのかもしれない。
取り憑かれるとは、我が彼になり彼が我になるといった同一化、一体化、彼我不可分の領域に至ることである。
そうした特性ゆえにアララギと袂を分かつことになったのであろう。
夏の暑さの去る気配もない、ごみの散らばる公園に、ごく普段着で物憂く集まる人々を思い出すと、それらの光景が「ものに寂びしむさが」ゆえの懐かしさを帯びる。
PR