8月13日(月)晴
池田ICから豊中ICで都市高速へ入る。
いつの間にか中之島の横を通り、1号環状線道頓堀出口に。
出口からすぐに、じつに順調に14:45大阪なんばワシントンホテルプラザに到着。
道路ひとつへだてて道頓堀という、じつによいロケーション。
しばし休息して、15:30さっそく道頓堀へ。
もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。小林秀雄『モオツァルト』の第二章は、冒頭にモーツァルトの交響曲第四〇番K.550第三楽章の冒頭の主題の五線譜を置いたあと、そう記される。
さらに、
僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。兎も角、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。町の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄えた。
『モオツァルト』は「創元」昭和二十一年十二月号と、新潮文庫版には記してある。
昭和二十一(1946)年から「二十年も昔」となれば、1926年頃。
年譜によれば、
1925/04初 (22歳) 富永太郎を通じて中原中也を知る
1925/09 中原中也の帰郷中に長谷川泰子に会う
1925/10/08 大島に旅行(泰子は待ち合わせに間に合わず)
1925/10 帰京後盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術
1925/11/12 富永太郎、肺結核により二四歳で死去
1925/11/14 正岡忠三郎、入院中の小林に富永太郎の死を告げる
1925/11下旬 杉並町天沼に長谷川泰子と同棲
(中略)
1928/03 東京帝国大学卒業
1928/05/25 (26歳) 長谷川泰子と別れ、関西へ向かう
1928/05末 大阪の日蓮宗の寺に宿坊する
とある。
『モオツァルト』に言う「二十年も昔」とは、泰子と別れた頃であると考えれば、事情が合う。
長谷川泰子の自伝『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』(角川文庫) によれば、鎌倉で小林と同棲中の泰子は神経症的症状を顕し、常に手を拭っていなくてはいられなかった。
そうした泰子に小林はじつにやさしく丁寧に接していたようである。
が、それは、触れてはならぬものを手元に置いているゆえのようにも、思える。
そして、それに耐えられなくなっかたかのような別離。
小林の頭に「ト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴った」のは、そうしたさなかであり、その当時を「自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう」とふりかえっているのである。
さらに続けて言う、
モオツァルトのことを書こうとして、彼に関する自分の一番痛切な経験が、自ら思い出されたに過ぎないのであるが、一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えないのである。
「彼に関する自分の一番痛切な経験が」と自分のナマな体験を回避し、「一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、」と途切れ途切れに読点を打ち、「その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えない」と迂回した断定を下すあたり、まさに小林自身にとっての「一番痛切な経験」がこの道頓堀で、まさに痛切に回想されたと考える可能性はある。
そしてその「痛切な経験」が過去のものとなっていることを、「その頃よりよく理解しているのだろうか」と振り返えざるを得ないのである。
道頓堀の雑踏は、翌日夜のあふれかえる人混みと比べればそれほどはなかったのだが、戎橋筋商店街の雑踏は、この日が何か特別な催し(たとえば万国博覧会のような)でもあったのかと思えるほどであった。
ざわめくような雑踏は、ト短調シンフォニイ第四楽章のテーマによく似ている、あるいはよくマッチしている。
失われた恋の思いは予期しない状況の中で生々しくよみがえる。
確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のように悲しい。
という思いが、自身のよみがえる感覚の中に確かめられる。
そして、
彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な荷物を引きずっていないだけだ。
という分析は、自らの過去の恋に対する哀惜であるかのようでもある。
彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。
「彼」(モオツァルト)とは、読者に、小林が見つめる(二十年も昔の)若き日の小林自身と重なって見える。
小林秀雄は、中原中也に対するコンプレックスから生涯脱することができなかったのではないかと、私は思っている。
小林も天才の一人ではあるが、それは中也の天才とはちがう。ちがいすぎる。
小林は中也に対するコンプレックスから逃げることも押し潰されることもせず、早逝した中也の天才というものを、自らの天才で再構築したのではないかと思える。
中也の帽子をかむった有名な写真の目、この世のものには焦点が合わず、その先を見るがゆえに絞りが開いているような目が、見つめていたものを、小林は、近接から無限遠まで見とおすような、あの引き裂かれたような目で描き直そうとする。
彼は、中也の持っていたものを、すべて自分のものにしなければ気が済まなかったかのようである。(たとえば長谷川泰子を奪ったように・・・?)
それはジェラシーであると同時に畏敬であるような感情と、その具現的な行為だったのである。
だからこそ、『モオツァルト』は実体験から二十年(中也の死後から十年以上)経ったから書くことができたようにも思える。
小林秀雄の『モオツァルト』は高校二年生の時に買って読んだのだが、なんだか難しいという印象だけが残った本だった。
晦渋とも思える小林の文章も、言葉ではない「そのもの」を、言葉で表現しようとする苦闘の跡であることが、それから三十数年経った今になって理解される。
美しいものを「美しい」という言葉ではなく、その美しさのもたらした心的・身体的反応を同様に読み手にもたらしたいという、表現者にとってごく当たり前でありながら最も困難な道を、小林秀雄は生涯たどったのだと思う。
そしてそれは小林以前には、中也が(血を吐く思いの一生涯の中で)ごく当たり前のように成したことなのだと、私は思う。
じつは、そのようなことを考えたり思ったりする余裕もないような戎橋筋商店街の雑踏の中を、私はひたすら人混みを南へと、南海難波駅へ向かった。
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