見えないものは見えない。見えているものも見えない。
母の命日に先立って、父と墓参りに行った。
帰り道、助手席に座っていた父が、
「人間は残酷よのう」
と言った。
いったい何を指して言っているのか、最近の出来事を思い出そうとしたが、
それのどれが父の言う残酷なのか、はっきり思えなかったので、しばらく答えよどんでいたら、
父が言った。
「ここはようけえ魚がおったんじゃが」
私たちは西部流通団地の中の道を車を走らせていた。
この土地ができあがったのはもう30年以上前なのだが、
父の一言で、私の頭の中には、泳いでいる姿のまま、そのままの色で、そのままの目で、地中に埋まっている魚たちが思い浮かばれた。
お魚
海の魚はかわいそう
お米は人に作られる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で麩を貰ふ。
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
大漁
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう
金子みすゞのこうした感性は、漁師たちの中で育つうちにはぐくまれたものだったのかもしれない。
獲るものと獲られるものという対立感覚ではなく、ともに海によって生きるものという感性。
海は、まことに広いのであった。
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