クローズアップ現代「
忍び寄る穀物高騰〜人と車の争奪戦〜」を見た。
アメリカとは、潜在的にバブルな国なのであろう。
1626年、オランダ西インド会社がマンハッタン島を先住民から24ドル相当で買い取った歴史的事実から、アメリカとアメリカが布衍しようとしてこれまで実施してきた世界と歴史が私たちの前にある。
381年前の24ドルが今の日本円にしていくらなのかは、知らない。
大事なのは、土地をお金で買ったという事実である。
じつにここから、今私の目の前にある世界が展開し始めたのである。
なぜに人間や動物を養うはずの穀物(トウモロコシ)が、車を動かす燃料としての価値と相克せねばならないのか。
「ごく当たり前のこと」が見失われている。
穀物は「人間や動物の食べ物」という原理・原則である。
穀物は「生産者(あるいはそれを動かす者)」に利益をもたらすもの。
もっと原則的に言えば、「物←→お金」の歯車を形成するものとしてのみ、成立させられているのである。
古典的な日本人の感覚から言えば、「トウモロコシで車を動かしてトウモロコシが満足するか?」ということではないか。
地面にお金を払い、それを所持=占有することに根拠を与える。つまり、お金が根拠。
それ以外はない。
それがアメリカの成立条件なのである。
そういう視点からすべてを見てごらん。そうなっているでしょ?
そして同じ番組で映し出された日本の畜産業者の風景〜ケージに閉じこめてウシやニワトリを飼う〜もまた、アメリカ的な風景なのである。
ウシやニワトリに食わせるトーモロコシがあるなら、わしに食わせろというのが、日本人の原風景ではないのか。
それをウシやニワトリに食わせるというのは、「経済原理」のもとで成立している風景だからである。
だから、ウシやニワトリの飼料が、車の燃料の原材料と、喰い合いを始めるのである。
日本人の喰うものが10円や100円値上がりしようが、それはアメリカにとって何の関係もない。
いいではないか。日本人は米と、塩を溶いた汁と、塩をしみ込ませた野菜を喰ってきて、何百年も問題なかったではないか。
改憲議論より先に、食料の国内自給率を上げることの方が、どれほどの優先課題であるか。
それすら日本国民は問題にしない。
戦後間もないときに「ララ物資」としてアメリカから(わずかな)食料が提供された。そのまま今があると思いこんでいるのだろうか。
外国から自らを閉ざしたときに、文化が発展を見せ人口が増えたという歴史的事実を、いったい誰がどのような責任においてなさねばならないのか。明らかではないか。
なりふり構わず泥まみれになることを美徳としてきたのが、日本の歴史ではないのか。
「美しい国」とは、修辞としてではなく、まさに泥まみれで己が命を養ってきた歴史に対してのみ有効な言辞であるはずだ。
自民党はもう一度、農林水産業従事者に基盤を置く覚悟があるのだろうか。(いや、ないはずだ。(反語))
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