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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

例文を参照して

例文を参照してあらたに自分の考えを
目の前に並べるように述べること
カイツブリ、カニノテ、寒天の中で生きている
目の中にすむそれらの生物
ニシラはワレラの住みかを犯さずにいるのか
 

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マーマレード

マーマレード・ボッサ
レモネード・ボッサ

大人ということ

電車やバスで大人料金を払うようになったら、
それなりの振る舞いをしなきゃあな。
そういうことだ。

フランクゲーリー

ラジオによりヒトは字を読まなくなり
テレビによりヒトは考えることをしなくなり
インターネットによりヒトは人間性を失う

というフランク・O・ゲーリーのことばのソースを探しているのだが、出てこない。
示唆に富んだことばなのだが、なぜ「ヒト」とカタカナなのかとか、どういう場面でだれに向けられたことばなのかとか、知りたいのだが、なかなか分からない。

どうしてこのことばが私たちの心をとらえるかというと、
1)私たちが字を読まず、考えることをせず、人間性を失った存在であるから。
2)私たちの周りには、字を読まず、考えることをせず、人間を失った存在があるから。
3)それらの原因が端的にラジオであり、テレビであり、インターネットであるから。
4)自分は、そこそこにラジオを聞かず、そこそこにテレビを見ず、それほどまでにはインターネットをしていないと思っているから。

なんと言っても、このことばが今のところインターネットからしか流れてこないことが、
象徴的だ。
このことばに出会った者は、もはや人間性を失っている可能性が高いのだから。
そしてそのことばに信憑性を感じているのだから。

このことばの分析は私の興味を引くものだが、
インターネット批判をインターネットでしようとしている自分とはなんであるのか。
このことばを(良いことばとして)インターネットで紹介することとどうように、
おかしな(funny)ことではないだろうか。

このことばをインターネットで扱うことは、鏡を合わせるように、映しだされるのは自分だけであり、
それは滑稽な姿をしているとしか思えないのだが。

父の元へ

父の元へ帰るのが御心ならば、
父の元へ帰らないのもまた、父の御心である。

カマキリの

カマキリの緑鮮やかに死にたる夜

夏枯れの薔薇

夏枯れの薔薇の花枝折りぬれば
    棘かたくして血の滲みゆく

七十而従心所欲不踰矩

七十而従心所欲不踰矩

【七】
字は切り断った骨の形で象形。~七は聖数とされ、名数として用いる語が多い。文体の名として〔七発〕〔七啓〕〔七諫〕など多くの作品が残されているが、その初義は、列挙的に賦誦することだま的な文学で、一種の呪誦文学と見るべきものであった。「七」はこの場合においても聖数的に用いられ、必ずしも実数ではない。
【従】
~軍事や祭事に随行・随従する意に用いることが多い。
【心】
心臓の形に象る。~心は生命力の根源と考えられていたが、卜文にはまだ心字がみえず、ただ聖化儀礼としての文の字形中にあらわれる。金文では神霊を安んずる寧(ねい)の儀礼、神判における勝訴を示す慶など、やはり神事に関する字にみえ、その他徳や愈など情性に関する字も二十数文をみることができる。文字の展開を通じて、その意識や観念の発達を、あとづけることが可能である。
【所】
~祖霊を祀る所をいうのが原義で、のち君主の在るところにもいう。~また関係代名詞的に用い、受身の語法もある。~
【欲】
声符は谷(よう)。谷に容・浴・裕の声があり、字義にも系連するところがある。容は廟中に祈って、その神容が彷彿としてあらわれること。その下す福を裕という。浴はみそぎ、欲はその神容を見んとねがう意で、欠(けん)は咨嗟詠嘆することを示す。~のち欲は欲望の意となり、欲情・貪欲の字となるが、もとは神霊に接したいという宗教的願望を意味した。文字にもまた、堕落の傾向がある。
【踰】
字統にはない。
「兪」
~兪系の諸字は、みなこのような兪の正義を受けるのもで、愉・愈・癒はその治癒によって心の安らぐことをいい、輸は他にものを移すこと、移送の意を承ける。
「逾」
~兪にここより彼に移す意がある。
【矩】
声符は巨。巨は矩の初文。〔説文〕五上に巨をその正字とし、「或いは木矢に従ふ。矢なるものはその中正なり」とするが、その矢の部分は、金文では巨を持つ人の形である。〔楚辞、離騒〕に「榘矱(くわく)の同じきところを求めよ」とあり、榘矱とは法度をいう。
「巨」
矩形の定規。~字を巨大のように用いるのは鉅との通用義。~

心とは何か。
心とは、感情であるか。考えであるか。
つまり、ロゴスであるか、パトスであるか。
「心」とは「意」とはちがう。
私たちのそれぞれの感情や考えとはちがうところに、心はあると、『字統』は教えている。

「生命力の根源」において、私たちは他の動物たちとどれほどちがっているのか。
たしかに、動物たちは「天」を知らないであろう。
ましてや「天」による「命」によって、私たちが生きていることなど、どれほど知ることができようか。
しかしながら、「生命力の根源」において。

「従心所欲」と「不踰矩」とが、逆接に解釈されていることが多いが、書き下しでも、もちろん本文でも、ストレートに接続されている。
順接といえば順接だが、そこに因果関係をはじめとした関係性は記されていない。

七十で生命力の根源に随従して四角い定規をはみ出さない。

四角い定規とは何だろう。
「天命」とは運命や宿命ではないと先に述べた。
「人々の中にありながら、人々の中の一人として何を為すべきか。
それが与えられたということではないだろうか。」
と私は考えた。

生命力の根源に従って生きるとは、生命力の根源を感得し、認知しなくてはあり得ない表出であろう。
「矩」、定規、枠。
しかしながら、生命にとっての枠とは、生きているということ以外にはあり得ない。

生命力の根源を感得し認知することで、生きている中にある自分を知る

「学」という限定された世界に生きる決意が、全生命の中にある自分を知るに至る。
ということなのだろうか。
志してから五十五年である。
「夫子の道は忠恕のみ」と曾子は言ったが、「恕」(ゆるす)とは、他者のみでなく自分をもゆるすことなくしては成り立たないだろう。
自他ともにゆるされる道とは、ともに生きている存在にしか過ぎないという認識なのではないだろうか。
そしてそれは、いとおしい。

六十而耳順

六十而耳順

【六】
小さな幕舎の形であるが、その原義において用いられることがなく、数の六にのみ用いる。すなわち仮借字である。~古い字形は∧に作る。陸はこの字形に従うもので、その字は神梯の前に六を重ねた形をしるし、六は小さな幕舎の形と見られるものである。陵の字形にも六を含み、陵と陸は関係のある字であろう。~
【耳】
耳の形に象(かたど)る。~耳は目とともに神霊に接する最も重要な方法であり、その敏きものを聖(せい)という。~さらに目の徳を加えたものを聴(ちょう)という。聴とは耳目の聡明を合わせいう語である。
【順】
~これは水の徒渉すべきところに臨んで、その安全を祈る儀礼を意味する字とすべく、安全を祈り、安全を保証されることが、順の初義であろう。従順・和順・順導・順逆などの意は、その引伸の義で、もと自然の勢に従うことを順といったのである。~

私が目にした解釈で、この句が最も解釈に難渋しているようである。

他人の言葉を素直に聞けるようになった

というのがその多くの解釈であるようだ。

「知天命」の解釈をしくじっているのかもしれない。
天命を知るとは、「知是天命」ではない。
何かが天命であることを知るということではない。
天命というものを知る、天命というものがあることを知る。
という意味ではないだろうか。

「耳順」とは、耳が天からの安全を祈り、安全を保証されること。
神霊に接する身体部分が保証され、ようやく天に接することができたということかもしれない。

五十で天の命ずるところのあるを知る。
六十で天の声に接する
 

冷凍されたスイカを解凍する

冷凍されたスイカを解凍するにはいくつかの手順が必要だ
命令すること/同情すること/無視すること/気づかぬこと
嚼むことはこれらのどれにもあたらないことなので
目の前を通り過ぎるものが何であるのか考えると
人間の考えが歯の裏にカチンとあたって止まる

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