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セクシュアリティ

セクシュアリティ【sexuality】
性的特質。性的興味。性を意識させることやもの。(大辞林)

sexuality
狭義の性行為だけでなく、性と欲望にかかわる人間の活動全般を指す語。ただしこの語は「セックス」や「ジェンダー」と複雑に絡み合っており、厳密な定義は困難である。セックスは生物学レベルの営みを、ジェンダーは文化的性差を指すとされるが、セクシュアリティはそのどちらをも含み、生殖、快楽、恋愛、自己表現といった多様な領域にまたがっている。ミシェル・フーコーは『性の歴史Ⅰ 知への意志』Histoire de la sexualit; La volont de savoir(1976)において、性が隠されたものであるかのようにみえて、じつは誰もが自らの性を語ることにとりつかれ、それによって自己規定しているという矛盾した事態を指摘した。すなわち性をめぐる言説は、私的領域の中心にありながら高度に公的なものでもある。
一般にこの語が使われるのは「ホモセクシュアリティ」と「ヘテロセクシュアリティ」の区別においてであり、ジェンダーが男女の性差を指すのに対して、セクシュアリティは性的指向、つまり同性愛・異性愛の区別をまず問題にする。(日本大百科全書)

セクシュアリティが性器に帰納されるなら、私たちは、自分の持っている性器によって「傷つけられている」存在だと、言えるのかもしれない。
男性器を持っているがゆえに、男性としての振る舞いを(他者からも自己からも)強制され、女性器を持っているがゆえに、以下同文。

という命題による議論として、私はどこに立っているのだろう。

つまり、私は私の持っている性器によって、傷ついているのだろうか。
少なくとも、私は私の持っている性器によって、私が持っていない性器を持つ者の立場に立つことを、拒否されている存在だといってもよいのではないか。

私は私の持っていない性器を持つ者の立場に、立ちたいと思っているのか?

それより、私は私の持っている性器によって、私の持っていない性器を持つ者の立場を想像することに制限が加えられていることに、疎外感を持っているのではないか。
それは、私は私以外の何者にもなれないという疎外感と同じではないだろうか。

他者理解の限界は、自己理解の限界を、ただちに想像させる。
そして、自己理解の限界が、他者理解の限界を直感させることによって、私は限りなく循環する絶望に至る。
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