なぜ言葉が何かを伝えたり、表したりすると信じているのだろう。
(信じるとは、信じるということをスキップすること。
表明すら必要としないこと。)
言葉によって傷つくこと、は、欺されるとはまたちがう。
言葉は、その周辺をうろつく。
うろつくことで、言葉としての資格を与えられる。
言葉の芸術といわれるものが、種々さまざまあることが、そのことを表している。
言葉を精緻にすればするほど、言葉を発するもとになったことがらから、離れていくということは、
古来言葉使いたちが言ってきたことなのに。
だから{言葉を精緻にすればするほど、言葉を発するもとになったことがらから、離れていく}から、技巧を巧緻にし、
「指し示す言葉」からいったん離れる。
古今から新古今への道程は、このことと一致しているように思える。
そして、巧緻にすればするほど、何かを表したり伝えたりしているように見えて、そのくせ何も伝えても表してもいないように、私たちには思えるようになる。
けっきょく{
何も=ない}
ネット社会と言われる世界は、
詰まるところ、
言葉の世界でしかない。
だから(か)、
言葉を所与のものとして認めなければ、何も存在しなくなり、
人間の感情は、冷徹さの下に、否定される運命だとかんがえられている。
そしてそのじつ、私たちは、感情だけですべてを判断しようとしている。
<~end>
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