更新がひと月以上あいてしまった。
2月10日には「リセット」があり、Yesをやった。というか自分にはあまり出番はなかったけど。
年度末をひかえて、というか、年度末の準備のために(?)あたふたと時間が過ぎていった。
何かを落ちついて考えることがなかった。
たとえば民主主義と少数派の件であるとか、人は人を教えることが好きなのではないか、そしてそれは人はお金とものを交換するのが好きだというのと同じように、生来の性質なのではないかとか、個人情報とは何かとか、ネタはあるのだが思考が続いていかない。
私が何かを考えているということは、考えている何か以外のことを私は考えていないことになる。言葉とは排他的であるところに、その存在基盤がある。
言葉が包括的存在であれば、まさに「猫も杓子も」ということになる。
古語としての「あはれ」を辞書で引くと、九つの項目がある。
かつては「あはれ」一語で表していたものを、私たちは九つの言葉で表している。
さらに各項目に二、三個の現代語がある。
たとえば、かわいい、いとしい、なつかしいの三語が一つの項目にまとめてある。
私たちはかわいいといとしいという二つの言葉の間には、何らかの差異があると思わざるをえない。
なぜって、言葉/単語が違うから。
つまり、「かわいい」は「いとしい」(のいくらかの部分)を排除しているのである。
そして「あはれ」から「かわいい」まで言語がたどった時間は、排他的に経過していると言える。
私たちが考えるときに、言葉を使う以上、私たちが考えるということは排他的にならざるを得ないのだろう。
「ねこ」という言葉を発しながら犬を想定することはできない。
私が何らかの詩を書いたとき、その詩の周囲に、私に書かれなかった世界が、ある。
私に書かれなかった世界を背負った詩というものが、可能なのか。
言葉は私たちの中から湧き出てくるものではなく、私たちの外部に存在しているものである。
私たちはまるで水中の魚のように言葉の海中を泳ぎ、その立てた水の濃淡が、波動となって他人に伝わる。
そうした行為の残滓として、行為が行われたことの確証として、言葉が存在するなら、私はその波動をたどって、包括的世界の存在を認知できるのではないだろうか。
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