ゴールデンウィークも終わり、いつもの日々が戻ってきたが、植物の緑はいよいよ青さを増していく。
気温は二十五度前後まで上がるが、湿度が低いため風が気持ちよい。
そんな昼下がり、シェーンベルクの組曲作品第二十九番を聴きながら、まどろむ。
シェーンベルクの作品は、二十世紀初頭の奇形な音楽としてとらえられがちであるが、まどろむ耳と頭には爽やかな五月の風と何ら違和感なく感じられる。
シェーンベルクは、その経歴とはべつに、音と音の関係を音楽にしたのだと、私は思う。
それは、風が木の葉をかすめ、さまざまな向きに生えている木の葉が、さまざまな音を奏でることと、ほとんど同位置にあるのではないか。
シェーンベルクの講義を聞いたケージが、偶然の音楽に向かったのも、必然であったのである。
私たちは、さまざまな自然現象にも、意味を付与しようとする。
それが、「単なる音」であってもだ。
シェーンベルクは12音技法を編み出したとき、ドイツ音楽の優位が100年保証されると言ったという。
それは、表現としての音楽ではなく、音の法則としての音楽であったはずだ。
それに奇形としての意味を付与しているのは、その音を聴いている私たちなのである。
PR