次のような質問があったので、以下のように考えてみた。
質問1.自由民主主義体制の下で少数派は、どのような役割を果たす「べき」であり、また多数派は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?
質問2.1.の回答を踏まえ、日本の現状をどのように評価していますか?
質問の文脈上、「べき」は義務の意と思われるが、法制上、少数派及び多数派の義務は規定されていないはずなので、これは道義的、心情的義務と考えてよろしいと思われる。
しかしながら、この質問は順序が逆なのではないかと思える。
少数派があって、多数派が生じるのではなく、多数派が生じた結果、少数派である自分を発見するのが、私の経験的認識である。
そのような私的な経験にもとづいて言えば、多数派の意見が絶対的に正しいのではないということを認識させる役割を、少数派は担っている。
しかしこのことは、多数派から要請された役割ではなく、少数派に位置づけられた自分が、「体制」の中にニッチを見つけ出す必要に迫られた行動だ。
というのがわからない人がどうも最近増えているように思える。
「体制」(会社とか、仕事とか)に反対的意見を述べると、「いやなら、やめたら」という返答がいとも簡単に述べられるケースが日常的に増えているように思う。
郵政民営化をにらんだ小泉自民党のとった行動の影響ではないかと、私は考えるのだが。
これは、「自由民主主義」が無定見に「経済至上主義」と手を結んだせいだと、私はかねがね考えている。
「自由民主主義」とはじつは、「やせ我慢」、「武士は食わねど高楊枝」的精神の上に成り立っているのだと思う。
「自由」とか「民主」というのが「自分の自由」や「私が主人公」であることと、それが「主義」であることとは同時成立しない。
白川静は「義」の字義を『字統』でこう解説している。
「羊と我に従う。我は鋸の象形。羊に鋸を加えて犠牲とする意で、牲体に犠牲として欠陥がなく、神意にかなうものとして「義しい(ただしい)」の意が生まれる。」つまり、「主義」の「義」とは、神(=自分ではないもの)によってその正当性が保証されることを表しているのである。
こうした字義からも、「自由民主主義」が自己中心とは正反対の立場に立つことがわかるであろう。
こう考えてくると、少数派も多数派も、とる「べき」立場・行動・対応は、明らかである。
という理想論がどの程度説得力を持つのか、不安であることは言うまでもない。
今の日本において、「生活」あるいは「生存」という言葉で、個人個人の欲望が保たれている。
そうした自己中心的欲望すらも保証するという日本の現状は、真の意味で「自由民主主義」なのかもしれない。
そういった観点からみれば、戦前の軍部独走の状態も、「自由」で「民主」であると言える。
戦国時代の領主、江戸時代の藩主の実体は、いかに民を安んじるかに腐心していたことか。
同じく『字統』には、「主」の字義として、
「灯火の火主の形。上の小点が火主、下部は鐙(あぶらざら)の形である。・・・〔礼記、小儀〕に、飲酒の際に主人が自ら火を執る礼をしるしている。主人・家長の意は、聖火を執るものの意から出たものであろう。・・・」と記している。
自分が「主」であることもまた、自らに拠るものではなく、自分ではないものに根拠があるのである。
そこに「民主」の本義をすえなければ「民主主義」と名告ることは許されないであろう。
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