忍者ブログ

web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

どこやらで

どこやらでおでん仕込むか木瓜の花

どこやらでおでん炊くらん木瓜の花

PR

愚かなる

愚かなる妻と穴子を食べたい盆の入り
気の合わぬ妻と鰻食べたし盆の入り

しおれたる樒を捨てる盆参り
少し萎びた樒をすてて盆参り

Roses in my little garden


Ableton Live、第3弾。
ああでもないこうでもないとやっている内に、曲数が増えたのを、FI~FOでつないだ。
途中でコードチェンジとかしている曲も、チェンジしないうちに次の曲になったりして、
まあ、どうすればいいのか、
 ---------------------------------------------
これまでの三作、自分で撮った写真をFilmoreで動画化した。スライドショーだけど。

Lady Bank's Rose-木香薔薇-


Ableton Liveで作成。第2弾。
付属音源以外も使ってみた。

一才桜2022年


Ableton Live は、自分のような音楽を作るのに適している。と感じる。
断片を、集め、組み合わせ、偶然に任せて、コントロールして、チャンスオペレーションのような、ジャズのような音楽の作り方。

釈迢空(2007年夏の旅より転載)

8月13日(月)晴(続き)
そこから少し行って左折すると浪速図書館があり、その先に敷津一丁目に鴎町公園がある。
そこに折口信夫文学碑がある。
道頓堀、戎橋筋の人混みは嘘のように、人もまばらである。
17:10。少々荒れた感じのする公園内に、数人があちらこちらに涼を取っているのか憩っているのか。
犬を連れて散歩してする人たちも、三々五々やって来る。

釈迢空・折口信夫の短歌に触れたのは、中学2年の国語の授業だった。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
釈迢空というと紫の色を思い出すのは、この歌のせいなのだろう。
1887年(明治20年)2月11日、大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西)に生れる。父秀太郎、母こう。七男二女の第七子、五男にあたる。生家は生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた
文学碑には、「十日戎」と題されて

ほい籠を待ちこぞり居る 人なかに、
 おのづから
われも
  待ちごゝろなる
の、『大阪詠物集』からの作が、二行に改められて彫ってあり、つづけて「増井の清水の感覚」の一文が彫ってある。
  ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ
鶏(トリ)の子の ひろき屋庭に出でゐるが 夕焼けどきを過ぎて さびしも

あまたゐる山羊みな鳴きて 喧(カマビス)しきが、ひた寂びしもよ。島人の宿に
葛の花の歌は、踏まれてみずみずしい色を沁ませた花びらから、自分より前にここを歩いた人があったのかと推測しているのではない。
葛の花を踏んで通った人の姿を、まざまざと目前に見ているのである。
だからこそ「行きし人あり」と言い切っている。それは、自分の直前にこの道を行った人でもあり、太古この道を行った人でもよい。
鶏(トリ)の子の歌の「さびしも」という結句は、親鳥をなくした雛を哀れと思うのでもなく、薄暮の庭に親のいるときと同じようにしている雛鳥の思いと同化している。
そして、たくさんの山羊の鳴き声のやかましい響きのなかに、山羊たちの思いと一体化する。
それは「悲し」でも「哀れ」といったものごとを自分と相手と対象化する語ではなく、何も知らぬかのような、それでいてすべてを知っているような思い、「さびし」でなくてはならない。
文学碑のほい籠の歌も、「おのづから われも」と自覚のないままに、ある一つの思いへと、まるで睡眠へと引きずり込まれるように落ちていく心性のもと描かれている。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
アララギ派の巨人、斎藤茂吉は「観照」を主唱した。
観照の説は、対象と自我との一致・一如を唱えるが、
たとえば茂吉の

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり
/『赤光』
などは、自注によれば、母親の臨終の時そこに燕がいたと言うだけである。
もちろんその「言うだけ」というのが肝要で、そこにあるがままを、自分の見たままを描きながら、そこに一個の世界を出現せしめるのが「観照」である。
茂吉が目前の世界をそのまま描き取るのに対して、迢空は対象への没入がいかにも激しい。
迢空は己の性質に関してこのように詠んでいる。

いまだ わが ものに寂びしむさがやまず。沖の小島にひとり遊びて
釈迢空は取り憑かれやすい体質(憑依体質)だったように思える。
一見「見たまま」であるが、その風景中の一風物への没入ぶりは「ものに寂びしむ」というごとくである。
寂びしむ」とは寂々としたかそけき様相であるが、本人が「いまだ~さがやまず」というように激しいものであったのである。
また、日本民俗学の祖とされる柳田国男も憑依体質だったようだが、柳田がおもに人事に移入したのに対して、釈迢空・折口信夫の場合、対象が動植物に及び、その点独自であると言って差し支えないのかもしれない。
取り憑かれるとは、我が彼になり彼が我になるといった同一化、一体化、彼我不可分の領域に至ることである。
そうした特性ゆえにアララギと袂を分かつことになったのであろう。

夏の暑さの去る気配もない、ごみの散らばる公園に、ごく普段着で物憂く集まる人々を思い出すと、それらの光景が「ものに寂びしむさが」ゆえの懐かしさを帯びる。

小林秀雄『モオツァルト』(2007年夏の旅より転載)

8月13日(月)晴

池田ICから豊中ICで都市高速へ入る。
いつの間にか中之島の横を通り、1号環状線道頓堀出口に。
出口からすぐに、じつに順調に14:45大阪なんばワシントンホテルプラザに到着。
道路ひとつへだてて道頓堀という、じつによいロケーション。
しばし休息して、15:30さっそく道頓堀へ。



もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。
小林秀雄『モオツァルト』の第二章は、冒頭にモーツァルトの交響曲第四〇番K.550第三楽章の冒頭の主題の五線譜を置いたあと、そう記される。
さらに、

僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。兎も角、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。町の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄えた。
『モオツァルト』は「創元」昭和二十一年十二月号と、新潮文庫版には記してある。
昭和二十一(1946)年から「二十年も昔」となれば、1926年頃。
年譜によれば、
1925/04初 (22歳) 富永太郎を通じて中原中也を知る
1925/09 中原中也の帰郷中に長谷川泰子に会う
1925/10/08 大島に旅行(泰子は待ち合わせに間に合わず)
1925/10  帰京後盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術
1925/11/12 富永太郎、肺結核により二四歳で死去
1925/11/14 正岡忠三郎、入院中の小林に富永太郎の死を告げる
1925/11下旬 杉並町天沼に長谷川泰子と同棲
(中略)
1928/03 東京帝国大学卒業
1928/05/25 (26歳) 長谷川泰子と別れ、関西へ向かう
1928/05末 大阪の日蓮宗の寺に宿坊する
とある。
『モオツァルト』に言う「二十年も昔」とは、泰子と別れた頃であると考えれば、事情が合う。
長谷川泰子の自伝『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』(角川文庫) によれば、鎌倉で小林と同棲中の泰子は神経症的症状を顕し、常に手を拭っていなくてはいられなかった。
そうした泰子に小林はじつにやさしく丁寧に接していたようである。
が、それは、触れてはならぬものを手元に置いているゆえのようにも、思える。
そして、それに耐えられなくなっかたかのような別離。
小林の頭に「ト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴った」のは、そうしたさなかであり、その当時を「自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう」とふりかえっているのである。
さらに続けて言う、

モオツァルトのことを書こうとして、彼に関する自分の一番痛切な経験が、自ら思い出されたに過ぎないのであるが、一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えないのである。
彼に関する自分の一番痛切な経験が」と自分のナマな体験を回避し、「一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、」と途切れ途切れに読点を打ち、「その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えない」と迂回した断定を下すあたり、まさに小林自身にとっての「一番痛切な経験」がこの道頓堀で、まさに痛切に回想されたと考える可能性はある。
そしてその「痛切な経験」が過去のものとなっていることを、「その頃よりよく理解しているのだろうか」と振り返えざるを得ないのである。
道頓堀の雑踏は、翌日夜のあふれかえる人混みと比べればそれほどはなかったのだが、戎橋筋商店街の雑踏は、この日が何か特別な催し(たとえば万国博覧会のような)でもあったのかと思えるほどであった。
ざわめくような雑踏は、ト短調シンフォニイ第四楽章のテーマによく似ている、あるいはよくマッチしている。
失われた恋の思いは予期しない状況の中で生々しくよみがえる。

確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のように悲しい。
という思いが、自身のよみがえる感覚の中に確かめられる。
そして、

彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な荷物を引きずっていないだけだ。
という分析は、自らの過去の恋に対する哀惜であるかのようでもある。

彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。
「彼」(モオツァルト)とは、読者に、小林が見つめる(二十年も昔の)若き日の小林自身と重なって見える。
小林秀雄は、中原中也に対するコンプレックスから生涯脱することができなかったのではないかと、私は思っている。
小林も天才の一人ではあるが、それは中也の天才とはちがう。ちがいすぎる。
小林は中也に対するコンプレックスから逃げることも押し潰されることもせず、早逝した中也の天才というものを、自らの天才で再構築したのではないかと思える。
中也の帽子をかむった有名な写真の目、この世のものには焦点が合わず、その先を見るがゆえに絞りが開いているような目が、見つめていたものを、小林は、近接から無限遠まで見とおすような、あの引き裂かれたような目で描き直そうとする。
彼は、中也の持っていたものを、すべて自分のものにしなければ気が済まなかったかのようである。(たとえば長谷川泰子を奪ったように・・・?)
それはジェラシーであると同時に畏敬であるような感情と、その具現的な行為だったのである。
だからこそ、『モオツァルト』は実体験から二十年(中也の死後から十年以上)経ったから書くことができたようにも思える。
小林秀雄の『モオツァルト』は高校二年生の時に買って読んだのだが、なんだか難しいという印象だけが残った本だった。
晦渋とも思える小林の文章も、言葉ではない「そのもの」を、言葉で表現しようとする苦闘の跡であることが、それから三十数年経った今になって理解される。
美しいものを「美しい」という言葉ではなく、その美しさのもたらした心的・身体的反応を同様に読み手にもたらしたいという、表現者にとってごく当たり前でありながら最も困難な道を、小林秀雄は生涯たどったのだと思う。
そしてそれは小林以前には、中也が(血を吐く思いの一生涯の中で)ごく当たり前のように成したことなのだと、私は思う。

じつは、そのようなことを考えたり思ったりする余裕もないような戎橋筋商店街の雑踏の中を、私はひたすら人混みを南へと、南海難波駅へ向かった。

死んだ子を

死んだ子をしかる夢見る寒もどり

偉大な芸術は偉大なのか


テーゼだけで、すべて語った。
すべては、偉大な芸術を偉大だと言うがために、存在する言説であるに過ぎない。
それでも心揺るがされる自分、

美味くても不味くても、メシは食っていかねばならない。

具体的なことは書きたくないが

コロナが蔓延している中で、オリンピックを止める気はないか?

GOTOトラベルでコロナ拡大の事実はある。〈したがって、間もなく取り止めた〉
オリンピックは「バブル方式」でおこなった。
オリンピックとコロナの拡大の間には、確たる因果関係はない。

オリンピックを止めろと言ったのに、聞いてくれなかった。
国民の行動は抑制して、政府はしたいことをした。
だから政府の言うことは聞く必要はない《ききたくない》
自分たちの言うことを聞かない政府は不要である。

ここにあるのは、コロナとオリンピックの因果関係ではなく、欲望の自由と、抑制の関係である。
-------------------------------------------
自分たちの望みを叶えない政府を交換する権利は、民主国家の国民にはある。

コロナとオリンピックの間には、欲望の自由と抑制の関係が直接成り立っていないはずだ(落ち着いて考えれば)が、
野党とマスコミは、巧妙に国民の抑鬱感情をくすぶらせ、焚きつけた。
-------------------------------------------
コロナはコロナ、オリンピックはオリンピック、であるところを、長期間にわたる抑鬱感情を利用したのが、野党マスコミである。

国民に感情的になるなとは、思わない。むしろそれでよいと思う。
感情のリードを握る者が、国民を向いているのか、冷静に考える者がいてよい。
-------------------------------------------
じつは、オリンピックは成功だった。
反対勢力があせっているのが、その何よりの証拠だ。
あせっているから、ますます活動は活発になってくる。

国会での議論が、○か×かで、考えを摺り合わせさらなる考えを生み出すようにしていない。
国民のためというフレーズは使うが、国民を考えてのことではないことが、よくわかる。
国民をだしに使っているだけである。
-------------------------------------------
パラリンピックでも同じことが繰り返される。
仏でさえ3度。
ミスリードされた国民感情は、あのとき開戦を望んだ時のように、なる。
その先は、75年前に経験している。

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[05/31 あそんでる人]

最新記事

(05/14)
(03/11)
(03/09)
(02/08)
(01/04)

最新TB

プロフィール

HN:
florva new noise maker
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(03/31)
(03/31)
(04/01)
(04/02)
(04/03)

P R

カウンター