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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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野茨の

野茨の揺れる形に夜の風
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にかを、間隔を置いて連続しているわたしの思考は

連続している思考は、間隔を置いてわたしの
目のようなふりをして、避け始める、なにかを。
間隔を置いてわたしの目のようなふりをして
目のようなふりをして、避け始めるなにかを、
にかを、間隔を置いて連続しているわたしの思考は

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネット時代、?
PC時代、?
の私たち人間は、じつは、原始時代の退屈さと同じような退屈さの中にいる。
同じものを一定の時間見ている私たちは、それを見ていないと同じことと感じる。
ネット上の情報は、けっきょくは、たんなるディスプレイ上のブリッツに過ぎない。
そのブリッツの点滅によって、私たちは何かを見ていると思い込み、
見るという能動的行為は私たちの思考という行為と、脳的に同じであるために、
ブリッツによって私たちは何かを考え、思考していると、
思い込まされている、脳の構造。

ネットの中に事実や真実はない。
なぜなら、わたしは(そしてあなたも)ネットのない時代を過ごしてここまできているのだから。
・・・・たとえば新生児、乳児の時・・・・・

考えるという行為が、見るという行為から乖離するときはいつなのだろうか?
見るという行為(体の動き)が、わたしに考えているという身体感覚を与えるのはなぜかと、
わたしの行為を分離して感じることができるのは、いつ?


宇宙からの画像を見て、人間のちっぽけさを感じること。


宇宙からの画像を見て、人間のちっぽけさを感じること。
あるいは、この地形の起伏の中で格闘する/諦めること。
どちらが、わたしとして、正当なことであるのだろうか。

地上のさまざまな争いを退けるために、自分がちっぽけな存在であることを認識することは、
他者もまたちっぽけな存在であることを強いる。

他者に強いない存在の仕方は、わたしを孤独へと解放する。
わたしは強大であり、わたしは微弱である。
わたしは存在し、わたしは存在しない。

なぜ、宇宙や世界との一体感を、彼らは強いるのであろうか。

宇宙から見ると平坦に過ぎない起伏を登り降りするとき、わたしは困難の中で、呼吸する。
わたしは生きていて、わたしは生きていない。

腰をおろした斜面のわたしの足下の、砂の粒とわたしと、どちらが貴重なのであるか。

すべての判断は、わたしが貴重であることにあらかじめ結論づけられている。
わたしが貴重であることの判断は、わたしが砂の粒とどちらが貴重であるか判断できないことによって、証明される。

手を振る。
わたしの目に映らない何かにむかって。
わたしが目に映らない何かにむかって。
毎日水を飲むように、手を、わたしは振っているようだ。

私が「コミュニケーション」とは何かと尋ねるとき

When I ask you what does "comunication" mean,what I want to receive from you as a resolt ?
私が「コミュニケーション」とは何かと尋ねるとき、私は何を答えとして欲しているのだろうか?
「コミュニケーション」という言葉の意味、つまり、語源から説き起こした意味だろうか。
それとも、「コミュニケーション」という人間の行為のことだろうか。

ネクタイピン


ネクタイがあるから、ネクタイピンがある。
では、ネクタイが存在する前のネクタイピンとは、何だったのか。

いや、屁理屈を言っているつもりはない。
ネクタイがある前のネクタイピンがあるから、ネクタイ以後のネクタイピンがあるはずだ。
そう思う。

缶詰が発明されて50年後に缶切りが発明されたらしい。
とすると、缶詰以前の缶切りは存在していないことになる。

であれば、缶切りのあの形状とは、いったい何を示唆しているのか。

単純に考えれば、ナイフ。
そして、梃子。

ナイフと梃子のハイブリッドが、缶切り。

であれば(再び)、ネクタイ以前のネクタイピンは何なのか。
あるはずである。

哲学

哲学とは、私たち人間がとらえうる限りの世界を、私たち人間の言葉に置き換えようとする行為のことだろう。

とすれば、科学も数学も、文学も芸術、音楽も、私たち人間がとらえうる限りの世界を、私たち人間の言葉に置き換えようとする行為のことだろう。

私たちが世界をとらえようとするとき、言葉に置き換えられないものは、とらえられない。

理解と対立

理解が和解を生むというのは誤解かもしれない。

理解ゆえの対立は、理解といえないのだろうか?

「食べる・もの(を)・作る」

「食べるものを作る」

「食べる・もの(を)・作る」

「食べる」という動作の対象は「もの」、なのか?

「作る」という動作の対象は「もの」、なのか?

では、「食べる」という動作と、「作る」という動作が、どう結びつくのか?

そしてそのときの、「もの」はどういう働きをもって、ふたつの動作の間に立っているのか?

「を」は、「食べる」と「もの」を関連づけ、

さらに「もの」と「作る」を関連づける。

助詞という付属語は、自立語というセルの隙間を流れることで、セルを緩やかに接着する。

助詞という付属語の働きは緩やかでかつ流動するので、「食べる」と「もの」と「作る」というみっつの自立語は、容易にその位置/働きを変える。

このように、言葉というものは、現実に目の前にしていても、流動的にその姿を変える。

一瞬たりとも、同じ形を見せることはないように思える。

・・・・たぶん私は疲れている。

聖職、サービス、サクリファイス、

体罰→自殺 事件で、教育/子育て論議が盛んであるが、
育てられる側の論議にはいっこうにならない。
それはそうで、育てる方の満足のみで、教育論は成立しているからだし、
それはつまり、どのような人間が必要かというのは、圧倒的年長者たちの立場でしか議論できないからだ。

教育、子育てというのは、枠にはめることであり、
たとえ可能性をのばすといっても、その可能性は『今』の価値観に合目的性がなければ
それは可能性とは呼ばれない。

教育の目的とはなにか。
多くの人間にとって、それは、自分にとって満足である~気にさわらない・範囲の人間になってくれることなのではないか。

体罰だけでなく、教育の過程が気に入らなければ、裁判になってもよい。
しかし、それは、教育の本質的議論にはならない。

いよいよ、「教育=サービス」の価値観の中に入り込んでいく。
「教育=サービス」論を支えるのは、価値観の普遍性である。
価値観の変化が余儀なくされたときに、
「教育=サービス」の価値観が否定されたときに、
私たちは高価値である観念に添うような教育を求めるのであろうか。

人類普遍の価値というものはない。
そういう価値観に、私たちは到達した。
しかし、人類普遍の価値が、それでも残存しているとしたら、
それは、生きている、という現実を延長する意志のことではないか。

宗教や、大東亜戦争末期の特攻や、イスラムのジーハードのように、
死の向こうに生の延長を実現しようとする価値観も存在する。

これから生きていく者がこれから持つであろう価値観ではなく、
すでに生きてきた者が予測する、過去の延長である未来の予測上の価値観を
与え続けることが、教育なのであろう。

とすれば、予測が過去の蓄積の上だけに成り立っているのなら、
予測が外れることを予測した「ゆるさ」がある方が、
予測自体の精度は高まる。

そう考えると、教育の本質は、子守、あるいは、押しつけ、の両極の間をぶらぶらしている不定形であるのが
その本来的姿なのかもしれない。
孔子は、渇かぬ馬に水は飲ませられないといったが、
同じ未来予測を持たない年少者に、年長者は何を与えられるだろうか。
井戸の掘り方?
水の貴重さ?
今すでにのどが癒され続けている者に、切実さを持って与えることができないなら、
同時代的要請に従って強要することしか、
「教育=サービス」論的世界での教師の「お仕事」はないであろう。

「教育=聖職」とは声高に言われなくなって久しいが、
「聖職」とは、誰にでもなる資格があり、必ず誰かしなければならない仕事を、
誰かが受け持っているということであり、
それはサクリファイスの思想であり、
それだからこそ「聖別」されているのである。

かつて、教職が尊敬されていた時代は、冷静に考えれば、ないことは明らかである。
そういった時代は、あこがれが作り上げた過去の虚像である。
(「師の恩」が富裕より清貧に基づいていることを思い出せばよい)
サクリファイスが、サクリファイスであることを根拠に、
清浄や高潔を強要され、
またそうであることを自らに強要することで、サクリファイスであることを意味づけようとしてきたである。

サクリファイスは「聖」であり、それ故放埒が許され、またその反面賤視されてきたのである。
「教育=サービス」の価値観と同居できる価値観であるのかどうか。

たぶん同居できないであろう。
「教育」は常に、家庭から離れたところで行われてきた。
「家庭」教育と、ことさらに言わねばならないことが、それを示している。
教育は常に、家庭にすり寄りながら、家庭を裏切ってきた。

螟蛉の葉裏に

礼儀正かったか? 私は三十億年前滅んだ。
螟蛉葉裏秘み鳴く音かな
かすめ取るなかを
目離れ時の花香に
逃げよう。今日こそは。ふたりでいっょに

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