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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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日本国憲法第9条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


日本国憲法第9条の改定論議が囂しいが、2012年末の衆議院議員選挙の際、池上彰の安倍晋三に対する「戦争もする、交戦規定もあるということは、国防軍の兵士に死者が出ることもある。そういうことを命令するお立場になるということでよろしいんですか?」という質問に、阿倍は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓」うという自衛官の宣誓文をもって答えるにとどめた。

国民の立場から国軍を持つことの議論はあるが、文民統制を貫くならば、国軍に命令を下すのは(国民ではなく)国家元首ということになる。
国軍に命令を下す状況というのは火急の場合であり、戦略的に考えても、国民投票を待つことはできないであろう。
つまり国民の(選挙によって選ばれた)代表である内閣総理大臣に判断と決断をゆだねることになる。
文民統制とはそういうことである。

池上の質問の本質は、
1.国軍に交戦を命令すると、兵士に死者が出ることもある。
2.国軍に(死者が出ることもある)命令を下す人物がいる。
の2点に要約される。
そして内閣総理大臣はこの2点に耐えることのできる人物であるべきではないのか、ということを含めて3つの点を視聴者に暗示していたのではないか。
政権争いどころの話ではないのである。国民生活のレベルでいえば、殺人教唆、自死教唆である。
それを指示・支持できるだけのタフさを、国家元首と国民は持ち得るのか。
と問うていたのではないか。

憲法は、国民から国家主権に対する制限という意味を持つ。
国権の発動たる戦争」とか「国際紛争を解決する手段」とか「国の交戦権」という文言がそのことを表している。
憲法を改定するという作業は、そういう覚悟を持つということである。

第9条に関して吉本隆明がおもしろいことを言っていたことを思い出した。
他国が攻め込んできたら、国民一人一人が何でもいいから武器を持って戦えばいい、憲法の規定は国、国家主権に対する規制なのだから、国民一人一人の交戦権は否定していない。
というのがその大意である。

外国軍が攻め込んできて、家族やあるいは隣人が助けを求めれば、助けることは私はやぶさかではない。
自分も家族や隣人に助けを求めることもあるだろう。
その延長線上に、国軍を持つことがあるのだろうか。
この延長線はあまりに長い気がする。
我々の真意とは違うところで、国家主権が軍事力を発動することがあり、その力が国民に向けられることもあるということは、日本国は経験済みであろう。
いや、それは日本だけではなく、交戦を経験したどの国も、経験済みのことであろう。
その意味で、国軍に対する規制規定を憲法は持たなければならない。

***してよい、という規定は近代法制にはあり得ない。


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神話

侵略は、神話の収奪をもって完了する。

アメリカ合衆国における白頭鷲。
古事記における様々の神。

Bob DylanのTempest

Bob DylanのTempest聴く夜にほつれる菊の花

茄子供養

言葉の中に死者がいるのではない。
言葉は生きている者のものだ。
ときたま、あるいはしばしば、または常に、言葉が死者と交差する。
それは、生きている者が死者と交差するのである。

言葉の中に死者をえがくのではない。
生きている者に死者は目に見えない。
言葉が、死者と交差するときに、私たちは死者と交わるのだ。

8月5日

私は自分を、被爆二世と言う。他人(ひと)も、たぶん、私は被爆二世だと言うだろう。

なぜ、私は被爆二世なのだろう。
人が名前でなく、その属性で呼ばれるとき、呼ぶものと呼ばれるものとの間にどうしようもならない断絶が生じる。
あるいは断絶を生起させるために、人は人をその属性で呼ぶ。
その属性は虚構ではないので否定できず、断絶は絶望的なものになる。

私が私を被爆二世と言うとき、自らが作り出した溝のこちら側で、立ちすくんでしまう。
他人(ひと)が私を被爆二世と言うとき、さっきまで届いていた手が、無限の距離の上で力なく揺れる。

8月5日、私は元安橋にいた。午前10時30分。
「核廃絶のための署名をお願いします」
女子高校生の声が、私の背筋を走り、目の奥から鼻にかけてつんと、思いが駆け抜ける。

私が自分を被爆二世と呼ぶのは、私の母が1945年8月6日、広島市祇園にいたからだ。
私の祖母もまた、その時小網町にいた。
母も祖母も、被爆しようとして広島にいたのではない。

人の属性は、必ずしもその人が望んで身につけるものではない。逆に、望んで自分のものになるものではない。
だから、私は自分が被爆二世である本当の理由がわからない。

彼女らは、そうした私のはっきりしない思いを突きぬけて、核兵器廃絶の署名を集め始めた。
彼女たちにとって、その行動の意味はさまざまだろうが、私には、私の祖母や母、そして私のために、暑い元安橋の上で声を上げてくれたようにしか思えなかった。

私は8・6前後に平和公園に行くことはなかった。
気が重いというか、腰が重いのだ。
署名を求める声を背に、明日の式典の準備が進む慰霊碑のあたりに行った。
親子連れ、外国人、平和ガイドを聞く数名の団体。

けっきょく、これらの情景は、私とは無関係なのだ。
全国から集まる各種団体、デモ行進、シュプレヒコール、高校生のころは、こうした様子がお祭り騒ぎのように思えて、腹立たしかった。
今日は、これはこれでいいのだと思えるようになった。平和を考える日が、一年に一日だとしても、それは尊いことだと。
しかし、それは私とは関係がない。

ふたたび元安橋に戻ると、ノーネクタイで上着は着ていないが、白い半袖シャツにスーツのズボン姿の男性たちが、署名に応じていた。
先ほどまで川向こう(たぶん広島郵便局職員殉職碑)で式をしていた人々だ。
その姿を見たときに、腑に落ちることがあった。
私にとって8・6は慰霊の日である。
Tシャツに半パン、スニーカーやサンダルを履き、あまつさえ首にタオルの人々は、その出で立ちからして慰霊にやってきたのではないことは明らかだ。
他人の葬儀に、そうした格好で来るだろうか。
彼らは死んだ人々を悼み慰めに来たのではなく、自分たちの(平和)学習のために来たのだ。
私はそのことを否定したり、揶揄する意図はない。
ただ、私がここにいる意味とは、大きくかけ離れているのだ。

来年も私はここに来るのだろうか。
墓に来るのは、いつでもいいだろう。
しかし、墓に来るのは死者を思い、死を悼み、死んだ者の霊を慰め、死者の思いを自分のものにするためである。

フラクタル

世界はフラクタルな構造をもつと仮定してみると、一部が全体を表すことになる。
自然の中にはフラクタル構造は理論上あり得ないということだが、
ということは、フラクタル構造は人間の何かを表していることになる。

政党が、多数による決定を絶対のものとし、異質なものを排除する(という全体主義的傾向を示す)なら、
それは、その政党の属する国家そのものの構造を表していると言えるのではないか。

機構(ハード)としての国家のみならず、人の集まり(ソフト)としての国家も、
嫌なら出て行けばいい、やめればいい、という言説で成り立っている。

嫌だから出て行くというのは、出て行く側の論理(りくつ)であり、
それが残る側から発せられるのは排除の論理以外の何ものでもない。

異質な存在がある可能性を認め、それがどう異質なのかを理解することにつとめ、
できうる限り共存の方法を探ることが、
私たちが採用してきた(民主主義)という方法であり、
話し合い、多数決というのは、その道具に過ぎない。
話し合いや多数決という行為が、民主主義を保証するのではない。

美味しい料理を作るのに必要な包丁も、殺人の道具になる。
人を殺しておいて、これは包丁だから命を奪う意図はなかったという強弁は通らないだろう。

リスク社会とは、リスク(つまり「損」)を中心的に展開する社会であり、
それって、まったくの後ろ向き社会ではないか。
「損して得取れ」という言葉もあるが、
差し引きゼロあたりをうろうろするくらいが、私たちがいちばん幸福を感じるところではないか。
リスクゼロであることが、私たちの幸福感を満足させないことは、もうわかっている。
リスクゼロは、リスクの側へ転げ落ちる恐怖感によってなりっているのだから。

百年?我は千年

百年?我は千年月夜の薔薇

キーケース


キーケースを買った。
HakasEのブルガノレザー、グリーンにイエローステッチ。
数年前にフリスクケースを買ったのと同じメーカー。
皮の色合いや手触りが、フリスクケースよりずっといい感じ。
キーぎりぎりの大きさだし。
3本しか入らない。

で、必要なキーを入れてみると、2本だけだった。
家のキーと、車のキー。
P6010003.jpg
自分の人生って、そんなもんだろう。
たくさんの鍵がある人生より、シンプルでよい。
この2本で困らない。

母の夢を見た

先週の火曜の早朝、母の夢を見た。
家族の食事の席に母が並んで、
ごめんね、お母ちゃん死んどるけえ。
と言って、家族で食事をした。
そのときの食事は、カレイの唐揚げが丸ごと載った不思議な丼だった。

そういえば、母の揚げたカレイの丸揚げが好きで、
マヨネーズをかけて、ご飯にレタスと混ぜて食べていたことを
昼食からの帰り道思い出したので、ここに書いておく。

(no subject)

どうすれば自分を正当化できるのか。
たぶんそれだけが、

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