見えないものは見えない。見えているものも見えない。
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数日後の夜、入院中の父が錯乱しているので来てくれと、病院から連絡が入った。
妻と二人で行くと、どうも父の頭は昔の中にいるようで、興奮している。
妻になだめられている父を前に座って、流れ出す涙をそのままにしていた。
そのとき自分が思っていたのは、父が格好いいということだった。
何かに腹を立てている父の顔は、昔と変わらず、あるいはそれ以上に、素敵だった。
私はこの二つの涙の理由を知らない。
涙の理由を名づけたときに、私の感情は姿を現す。
津波の映像は、私にプリミティブな恐怖の感情を呼び起こしたと名づけられる。
が、父を前にして涙を流させた情動に、私は名をつけることができないでいる。
それは懐かしさに近いものだった。
六年ぶりに沖縄へ行った。
初めの二日間、戦跡巡りをした。
座喜味城趾では生憎の雨風で、読谷の軍事施設等よく見えなかった。
風にあおられる傘を押さえながら、ランドマークを見つけようとしたが、かなわない。
次いで訪れたシムクガマは初訪問だった。
降りやまぬ雨も考慮して奥までは行かなかったが、懐中電灯を消しての暗闇体験は、すぐそこに入り口の光が見えるのに、私たちの体全体を包み込むのに十分な闇だった。
このガマでは、ハワイ帰りの二人によって、千人近くの命が長らえた。
楚辺通信所、通称象の檻が撤去されたことを、案内の平和ガイドさんに聞いたので、象の檻はどこにありましたかねえと言うと、ここですと指さされたところを見て呆然とした。
そこはバスを降りた目の前であり、今はもう何も残さぬ草原になっていた。
軍事施設がなくなることは、私たちにほっとした思いをいだかせるが、じっさいには他所でもっと強力な何かが、目に見えず、作られているのであろうことを感じさせる。
読谷村役場入り口あたりで、平和ガイドさんに読谷の静かな粘り強い「闘争」を聞くころには、バケツをひっくり返したような雨が続いた。
チビチリガマではバスの中で、平和ガイドの比嘉さんの話を聞いているうちに雨が小止みになり、ガマの前まで移動した。
チビチリガマでは避難中の140人中83名が「集団自決」した。じっさいには自死のみならず、家族同士の殺し合いであった。
シムクガマの投降も、チビチリガマの自死殺戮も、4月1日に米軍上陸、2日におこなわれた、どちらも命を賭しての選択だった。
生き延びたシムクガマの人々にも、助かったという無邪気な安堵はなかったはずのように思える。
沖縄戦は4月1日から6月23日(そしてその後も)、約3か月(あるいはそれ以上)かけておこなわれたのだが、この二つのガマでの出来事のような命の決定が、そのごく最初になされたということにあらためて気づくと、サトウキビ畑の向こうに広がる海が、1500隻ともいわれる艦船に埋まっていた写真の光景が、胸をふさぐように思い出される。
二日目も雨模様の中、魂魄の塔、沖縄平和祈念資料館、平和のいしじ、ひめゆり記念館を訪ねた。
アブチラガマ(糸数壕)は毎回訪れているが、コースも整備され(中身自体に手はつけられていないが)これまで見なかったところも案内してもらった。
ここは規模も、闇の濃密さも格別で、外に出たときはいつも生き返った感じを得る。
実際に沖縄に訪れると、頭の中の理解ではない、実感的理解が私たちをとらえる。
なぜ沖縄の人たちはこんなことを言うのか、ごく当たり前に理解が体の中に入り込んでくる。
三日目は観光で美ら海水族館、むら咲きむらで体験学習したのだが、ふとした拍子に現実感を喪失していることに気づく。
昨日までの戦争の傷跡の方が現実で、今の平和は夢なのではないかと。
それは四日目まで、少なくとも沖縄にいる間中続いた。
広島に帰った翌日も、うまく現実感を持つことができないでいたのだが、
広島の街を歩きながら、歴史の連続間を手に入れることができた。
今の平和が現実でないのでも、昔の戦争が現実でないのでも、ない。
昔の戦争から地続きで、今私がここで生きているのだという感覚が、すうっと私の中に入ってきた。
「云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた」「私」は「二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた」主人公は「夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた」のだが、その彼の前に「如何にも田舎者らしい娘」が「三等の赤切符」を「大事さうにしつかり握」って「前の席に腰を下し」た。
あ、分析はいいや。
主人公はこの娘に苛立ちを覚えて新聞を読もうとするのだが、娘が気になって、機械的に目を通しているにすぎないという思いに支配される。そして、
「これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛はふり出すと、又窓枠に頭を靠もたせながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。」
でまあ、トンネルに入ると同時に娘が列車の窓を開けて、機関車の煙にむせて、娘に対してむかつく主人公。
しかしながら、窓を開けた理由が、次に描写される。
「暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色と」
はたしてこれは、「鮮やかな」色彩をもった景色なのだろうか。
鮮やかなのは、蜜柑の色である。
そして「小娘」の行為である。
芥川が『藪の中』で描いたのは、当事者でさえ真実をかたりえない(殺害された当の本人(の幽霊)でさえ)、言葉の不安定さ。そして、その言葉の背後・裏にある、当人の実体験ですら真実ではない~言葉にしたとたんに真実でなくなるという「シューレジンガーの猫状態」~であったのだが、その3年前に書かれたこの『蜜柑』に、言葉が芥川にとってそのようなものであることが、予感的に描かれている。
芋粥 1916年
蜘蛛の糸 1918年
蜜柑 1919年
杜子春 1920年
藪の中 1921年
トロツコ 1922年
詩集 1925年
或阿呆の一生 1927年
これだけの作品を取り上げてきたが、芥川の悲劇は、そうした「予感」に自覚的でなかった/知っていて無視した/知らないふりをしなければならなかったところにあるのではないか。
芥川龍之介についての考察は、これでいったん筆を擱く。
次に芥川について書くとすれば、先述の「予感」を自覚していたか、いなかったかに関する考察となる。
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