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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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二つの涙

今年(2011)314日のことだったと思うが、職場から車で帰り着いて、駐車場でカーナビをTVチューナーに切り替えた。
大震災や津波の情報が知りたかった。
カーナビの小さな画面に、一般の人が撮ったという映像が流れた。
高台に避難する人々の足下まで水が迫り、電柱がなぎ倒され、家が押し流されていく映像を見ながら、涙が湧いてきた。


数日後の夜、入院中の父が錯乱しているので来てくれと、病院から連絡が入った。
妻と二人で行くと、どうも父の頭は昔の中にいるようで、興奮している。
妻になだめられている父を前に座って、流れ出す涙をそのままにしていた。
そのとき自分が思っていたのは、父が格好いいということだった。
何かに腹を立てている父の顔は、昔と変わらず、あるいはそれ以上に、素敵だった。


私はこの二つの涙の理由を知らない。
涙の理由を名づけたときに、私の感情は姿を現す。


津波の映像は、私にプリミティブな恐怖の感情を呼び起こしたと名づけられる。
が、父を前にして涙を流させた情動に、私は名をつけることができないでいる。
それは懐かしさに近いものだった。

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白菊に添う心

白菊に添う心ありて立ち待ちの月

TPP

日本経済全体として自由化の利益が損失より大きいことは明らかだが、生産者が損することも明らかだ。つまり貿易自由化は生産者から消費者への所得移転だが、これはゼロサムゲームではない。生産者にB-Eに相当する額を所得補償すれば所得分配にも中立になり、経済の効率は上がる。これがWTOの方針であり、民主党の提案した農業戸別補償のもともとの考え方だ(今は単なるバラマキになってしまったが)。

つまり関税を廃止して所得補償に変えれば、農家の所得を同じに保っても消費者は利益を得る。日本は農業に比較優位はないので、農家が他の産業に転換することで生産性も上がる。ところが内閣府も経産省も輸出増だけを考えているので、メリットが見えない。おそらく反対派のいうように、TPPによって輸入増が輸出増を上回るだろう。それは日本にとっていいことなのだ。

池田信夫blog part2
「TPP参加による消費者の利益は生産者の損失より大きい」 (2011年10月29日 13:43)

消費者になるには、消費行動以外に何の資格もスキルも要らない。
それゆえ、現代社会においては、全ての人間が消費者として位置づけられる。
生産者になるには、スキルを初めとした様々な要件が必要である。
とくに農業においては、生産者のスキルのみならず、「土地のスキル」が必要となる。
消費者の利益を生産者の損失に優先させることは、今後長い時期にわたって「土地のスキル」を放棄することになる。

また、「農家が他の産業に転換することで生産性も上がる」と池田は言うが、それは他の産業に必要なスキルの習得を要請することになる。
人が生きるとはどういうことか。
少ない収益でも、時には損ばかりしていても、生き甲斐を持つことはできる。
損が厭なら転職せよという物言いは、放射能汚染が厭だというのは間違いだという口ぶりと同じだ。

損得でしか人生を語れない時代は終わろうとしているのではないか。
しかしいまだに損得勘定は、私たちの身に染みている。
戦中派が軍隊式を捨てきれないのと同じように。

私たちは私たちが育った(育てられた)語法の中でしか、
物事が考えられず、発言できないのだろうか。

安全宣言

なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか。
「安全宣言」とは、切り捨ての口実だということ。

「安全宣言」したから食べても大丈夫です。
それでも食べないのは「風評」被害のせいです。
食べない人が悪いのです。

・・・・
補償も何もあったものじゃない。

私は食べません。
でも作った人たちの生活を保障する手立ては、ないのか?

白菊の

白菊の咲き誇りたり六日月

沖縄から帰ってきた

六年ぶりに沖縄へ行った。
初めの二日間、戦跡巡りをした。
座喜味城趾では生憎の雨風で、読谷の軍事施設等よく見えなかった。
風にあおられる傘を押さえながら、ランドマークを見つけようとしたが、かなわない。

次いで訪れたシムクガマは初訪問だった。
降りやまぬ雨も考慮して奥までは行かなかったが、懐中電灯を消しての暗闇体験は、すぐそこに入り口の光が見えるのに、私たちの体全体を包み込むのに十分な闇だった。
このガマでは、ハワイ帰りの二人によって、千人近くの命が長らえた。

楚辺通信所、通称象の檻が撤去されたことを、案内の平和ガイドさんに聞いたので、象の檻はどこにありましたかねえと言うと、ここですと指さされたところを見て呆然とした。
そこはバスを降りた目の前であり、今はもう何も残さぬ草原になっていた。
軍事施設がなくなることは、私たちにほっとした思いをいだかせるが、じっさいには他所でもっと強力な何かが、目に見えず、作られているのであろうことを感じさせる。

読谷村役場入り口あたりで、平和ガイドさんに読谷の静かな粘り強い「闘争」を聞くころには、バケツをひっくり返したような雨が続いた。

チビチリガマではバスの中で、平和ガイドの比嘉さんの話を聞いているうちに雨が小止みになり、ガマの前まで移動した。
チビチリガマでは避難中の140人中83名が「集団自決」した。じっさいには自死のみならず、家族同士の殺し合いであった。

シムクガマの投降も、チビチリガマの自死殺戮も、4月1日に米軍上陸、2日におこなわれた、どちらも命を賭しての選択だった。
生き延びたシムクガマの人々にも、助かったという無邪気な安堵はなかったはずのように思える。
沖縄戦は4月1日から6月23日(そしてその後も)、約3か月(あるいはそれ以上)かけておこなわれたのだが、この二つのガマでの出来事のような命の決定が、そのごく最初になされたということにあらためて気づくと、サトウキビ畑の向こうに広がる海が、1500隻ともいわれる艦船に埋まっていた写真の光景が、胸をふさぐように思い出される。

二日目も雨模様の中、魂魄の塔、沖縄平和祈念資料館、平和のいしじ、ひめゆり記念館を訪ねた。
アブチラガマ(糸数壕)は毎回訪れているが、コースも整備され(中身自体に手はつけられていないが)これまで見なかったところも案内してもらった。
ここは規模も、闇の濃密さも格別で、外に出たときはいつも生き返った感じを得る。

実際に沖縄に訪れると、頭の中の理解ではない、実感的理解が私たちをとらえる。
なぜ沖縄の人たちはこんなことを言うのか、ごく当たり前に理解が体の中に入り込んでくる。

三日目は観光で美ら海水族館、むら咲きむらで体験学習したのだが、ふとした拍子に現実感を喪失していることに気づく。
昨日までの戦争の傷跡の方が現実で、今の平和は夢なのではないかと。
それは四日目まで、少なくとも沖縄にいる間中続いた。

広島に帰った翌日も、うまく現実感を持つことができないでいたのだが、
広島の街を歩きながら、歴史の連続間を手に入れることができた。
今の平和が現実でないのでも、昔の戦争が現実でないのでも、ない。
昔の戦争から地続きで、今私がここで生きているのだという感覚が、すうっと私の中に入ってきた。
 

芥川龍之介「蜜柑」

「云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた」「私」は「二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた」主人公は「夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた」のだが、その彼の前に「如何にも田舎者らしい娘」が「三等の赤切符」を「大事さうにしつかり握」って「前の席に腰を下し」た。

あ、分析はいいや。
主人公はこの娘に苛立ちを覚えて新聞を読もうとするのだが、娘が気になって、機械的に目を通しているにすぎないという思いに支配される。そして、
「これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛はふり出すと、又窓枠に頭を靠もたせながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。」
でまあ、トンネルに入ると同時に娘が列車の窓を開けて、機関車の煙にむせて、娘に対してむかつく主人公。
しかしながら、窓を開けた理由が、次に描写される。
「暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色と」
はたしてこれは、「鮮やかな」色彩をもった景色なのだろうか。
鮮やかなのは、蜜柑の色である。
そして「小娘」の行為である。

芥川が『藪の中』で描いたのは、当事者でさえ真実をかたりえない(殺害された当の本人(の幽霊)でさえ)、言葉の不安定さ。そして、その言葉の背後・裏にある、当人の実体験ですら真実ではない~言葉にしたとたんに真実でなくなるという「シューレジンガーの猫状態」~であったのだが、その3年前に書かれたこの『蜜柑』に、言葉が芥川にとってそのようなものであることが、予感的に描かれている。

芋粥 1916年
蜘蛛の糸 1918年
蜜柑 1919年
杜子春 1920年
藪の中 1921年
トロツコ 1922年
詩集 1925年
或阿呆の一生 1927年

これだけの作品を取り上げてきたが、芥川の悲劇は、そうした「予感」に自覚的でなかった/知っていて無視した/知らないふりをしなければならなかったところにあるのではないか。

芥川龍之介についての考察は、これでいったん筆を擱く。
次に芥川について書くとすれば、先述の「予感」を自覚していたか、いなかったかに関する考察となる。

十五夜を過ぎて

十五夜を過ぎて野分の雨なるか

8月のまとめ

10日
反省会と打ち上げ。窓から夜鳴き屋にいって、2時過ぎ帰宅。
11日
だらだらと過ごし、
12日
アルパークの酔心で夫婦で昼食。ウニ釜飯に鱧天付き。めがねを直してもらったり、ゲーセンで一発取り、ガチャも欲しいアイテム取れたし。
13日
学院で10時から練習。午前中はセッション。午後は28日のための練習。
14日
バス50号線で宝町北下車、歩いてCreamに14時過ぎ。
荷物を置いてぎょうざ福万でラーメンとビール小瓶。
リハして、5時過ぎ末廣で天ざる。
本番Blue BossaとThe Chickenの2曲、ソロあり。
居酒屋広島藩で打ち上げ。燗酒が薄すぎ、でも3本飲んだかな。
2時過ぎに終了。直帰。
16日
20時からHJO練習。
17日
朝じゃらんで宿を取ってから柳川に出発。
美東SAで昼食。
柳川では御花に宿泊。とてもよい。
18日
白秋生家・記念館を観覧して帰広。
20日
12時過ぎ貸し切りバス乗車。今治ジャズタウンに出発。
17時半リハ。20時過ぎ本番。7曲。
打ちあげ。ホテル帰りに交差点で向井繁春さんに出会う。
21日
10時半リハ。
ランチミーティング。プロの方々と同席。
プロのリハを見学させていただく。
16時半過ぎ、ウェルカム演奏。
終わってすぐにバス乗車帰広。
27日
19時前、さくらピアリハーサル室で練習。
28日
9時からリハーサル室で練習。12時半から舞台リハ。
16時半コンサート終了。
打ちあげは海物語。2次会は坐和民。1時過ぎ帰宅。
29日
千代田温泉。月曜なので食堂はご主人ひとりで切り盛り。
中華そば、卵焼き、ごはん。キュウリの漬け物付き。
ご飯が美味しいので、千代田の米かと尋ねると、そうだが水が違う、ガスで炊くのもうまいのだろう。
水が違うので同じ米を買って帰っても美味しく炊けないだろうとのこと。
温泉も客が少なく、しまいには貸し切り状態。
久しぶりに水風呂に入った。冷たさが心臓に悪そうで控えていたのだが、大丈夫だった。気持ちよかった。

夢のような日々が終了した。
明日からまた現実に戻っていく。

俳諧の発句

俳句は「読み」の芸術である。

俳諧の発句として存在したとき、それはその後に続く(歌仙ならば)35句の存在を想像して作られたはずだ。
だから、発句は「読まれて」その意味を持つように作られたはずだ。

子規が「俳諧の発句」を「俳句」と言い換えたとき、後に続く35句は想定されなかった。「蕪村句集講義」を読んでいるとそのことがよくわかる。
が、DNAとしてその性格は残された。

だから、俳句が「読み」の芸術として、存在している。

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