見えないものは見えない。見えているものも見えない。
六年ぶりに沖縄へ行った。
初めの二日間、戦跡巡りをした。
座喜味城趾では生憎の雨風で、読谷の軍事施設等よく見えなかった。
風にあおられる傘を押さえながら、ランドマークを見つけようとしたが、かなわない。
次いで訪れたシムクガマは初訪問だった。
降りやまぬ雨も考慮して奥までは行かなかったが、懐中電灯を消しての暗闇体験は、すぐそこに入り口の光が見えるのに、私たちの体全体を包み込むのに十分な闇だった。
このガマでは、ハワイ帰りの二人によって、千人近くの命が長らえた。
楚辺通信所、通称象の檻が撤去されたことを、案内の平和ガイドさんに聞いたので、象の檻はどこにありましたかねえと言うと、ここですと指さされたところを見て呆然とした。
そこはバスを降りた目の前であり、今はもう何も残さぬ草原になっていた。
軍事施設がなくなることは、私たちにほっとした思いをいだかせるが、じっさいには他所でもっと強力な何かが、目に見えず、作られているのであろうことを感じさせる。
読谷村役場入り口あたりで、平和ガイドさんに読谷の静かな粘り強い「闘争」を聞くころには、バケツをひっくり返したような雨が続いた。
チビチリガマではバスの中で、平和ガイドの比嘉さんの話を聞いているうちに雨が小止みになり、ガマの前まで移動した。
チビチリガマでは避難中の140人中83名が「集団自決」した。じっさいには自死のみならず、家族同士の殺し合いであった。
シムクガマの投降も、チビチリガマの自死殺戮も、4月1日に米軍上陸、2日におこなわれた、どちらも命を賭しての選択だった。
生き延びたシムクガマの人々にも、助かったという無邪気な安堵はなかったはずのように思える。
沖縄戦は4月1日から6月23日(そしてその後も)、約3か月(あるいはそれ以上)かけておこなわれたのだが、この二つのガマでの出来事のような命の決定が、そのごく最初になされたということにあらためて気づくと、サトウキビ畑の向こうに広がる海が、1500隻ともいわれる艦船に埋まっていた写真の光景が、胸をふさぐように思い出される。
二日目も雨模様の中、魂魄の塔、沖縄平和祈念資料館、平和のいしじ、ひめゆり記念館を訪ねた。
アブチラガマ(糸数壕)は毎回訪れているが、コースも整備され(中身自体に手はつけられていないが)これまで見なかったところも案内してもらった。
ここは規模も、闇の濃密さも格別で、外に出たときはいつも生き返った感じを得る。
実際に沖縄に訪れると、頭の中の理解ではない、実感的理解が私たちをとらえる。
なぜ沖縄の人たちはこんなことを言うのか、ごく当たり前に理解が体の中に入り込んでくる。
三日目は観光で美ら海水族館、むら咲きむらで体験学習したのだが、ふとした拍子に現実感を喪失していることに気づく。
昨日までの戦争の傷跡の方が現実で、今の平和は夢なのではないかと。
それは四日目まで、少なくとも沖縄にいる間中続いた。
広島に帰った翌日も、うまく現実感を持つことができないでいたのだが、
広島の街を歩きながら、歴史の連続間を手に入れることができた。
今の平和が現実でないのでも、昔の戦争が現実でないのでも、ない。
昔の戦争から地続きで、今私がここで生きているのだという感覚が、すうっと私の中に入ってきた。
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