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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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若者は未来の夢に眠り老人は過去の思い出に眠る

眠りの中で若者は未来を夢み
老人は過去の思い出に眠る


未来より過去の方が多くなった年齢になって、そんなことを思い続けていたのだが、
中学校1年生か2年生の頃、
しきりに小学校の頃が懐かしくてたまらなかったことを思い出した。
ムラカミユウスケくんのことが、懐かしくてたまらなかった。
13,4歳の自分が、過去を懐かしんでいたことが、思い出される。

過去を懐かしむことは、過ごしてきた時間の量に比例するのではないのかもしれない。
あのころ、なぜユウスケが懐かしく思われたのだろうか。
小学校の頃の友と離れて、皆とはちがう中学校に進んだからだろうか。

懐かしさとは、断絶によってもたらされるのだろうか。
とすれば、老人は断絶の中に生きていることに、なるのだろうか。

いったい、何からの、断絶? 未来、それとも、過去?
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連続して高まる湿度が大気の

連続して高まる湿度が大気の
目立った変化に季節を「例年」に近づけなかったようだが
寒暖計がヒフの湿度による
めんどうな年齢になっていく季節をたえ
似かよった舗道を過ぎたの人たちが、歩いて向こう側の通りに気がつかない。

「レイン」と、それを呼ぶ人たちがいて

「レイン」と、それを呼ぶ人たちがいて、
目の前かあるいは目の中に、あふれる名づけられないものが
感謝のように触れられることを待って並んでいる。

命名することによってそれらはかざされ
人間のように言葉を主張しはじめる

クリスマス

イエスがなぜ十字架に架かったかを、新約聖書(マタイによる福音書)は次のように述べる。

マタイ 27:16
そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。  一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」  しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。  ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。  ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」  そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
 
私は、特にマタイ伝は、イエスを引き渡した「民衆」に悪意をもって書かれていると思うのだが(もちろんそれには相応の正当な理由があるのだが)、私はマタイの「悪意」について述べるつもりはない。
私が考えている(いた)のは、イエスを十字架に引き渡した「民衆」であるはずの私たちが、なぜイエスの生誕を喜び祝うのかということである。

イエスを十字架に引き渡した私たち(民衆)が、イエスの誕生を祝うというのは、生け贄の子羊の誕生を祝うことではないのか。
私たちの罪を負わせ、償わせる生け贄の誕生を祝うことの残酷さを、なぜ私たちは気づかないのか。
民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 
誕生を祝うことは、その「血の責任」であるのか。
「救い主」とは、そういう私たちの自分可愛さの言い逃れなのか。
ということが、この数年の私の疑問であった。
(この項続く)

At Seventeen

At Seventeen / Janis Ian
Between The Lines(1974)

29日の忘年会の時間をのぞいて、今日の午過ぎまで4日間パジャマで過ごした。
昨夜ふと思いついて、風邪薬を飲んだのが良かったのだろうか、今朝はさほどの目まい感もなかった。
とはいえ、昨夜は寝付かれずに(朝昼とずっと寝ていたのだから、当たり前)午前2時過ぎまで本を読んで、それでも寝付けなかった。
なんだか久しぶりにジーンズとセーターを着た。

「17歳の頃」。
こんな歌に出会えて、よかった。
同じ痛みを持っている人が、ここにもいる。
あれこれ複雑なことや、哲学的なことを考えなくてもいい。
複雑なことや哲学的なことを言う人が、複雑だったり哲学的だっりするわけではない。
魚の目の色をお客さんに説明したり、何も言わずにちらっと目を向ける人が、そうなのかもしれなかったり。

友達がいて、その友達との関係で傷つく人がいる。
でも、そんな友達もいなかったりする人の方が、自分にはなじめるのだと、
ようやく気づいた。
私は多くの人を傷つけてきた。人を傷つけるくらいなら、自分が傷ついたまま泣いていた方が、よい、と思う。

突発性難聴

12月9日大事な忘れ物があることが判明したので、急遽職場へ戻る。
車の中でかなり耳が詰まっていることがわかり、特に低音域がワンワンする。

12月10日、休みを取って福島生協病院の耳鼻科へ行く。
特に左耳の聴力が落ちている。
右耳も高音域が落ちている。
鼓膜の検査などもしてもらった結果、突発性難聴という診断。
ステロイド療法をすることに。
点滴がよく効くということだが、毎日ということもあって時間がとれそうもなく、投薬治療に。

12月13日はHJOの川本町でのゲスト演奏だったが、ステージ上でも客席でも、ドラムやベースの音がワンワン頭の中を回るようで、最悪だった。
自分の吹いている音も、遠くで鳴っているようで、よくない。
打ち上げで酒を飲んでいるうちに、楽になってくる。
血の巡りが良くなったか。

12月17日再検査。
聴力はかなり戻っているし、塞がった感じもほとんど無い。
両耳の聴力がそろいつつある。
微少な音量差を聞き取る検査をする。
ついつい一生懸命聞き取った結果、正答率が両耳とも90%以上あり、神経が過敏だといわれる。
「職業病」か。

クリスマス礼拝の練習でパイプオルガンの音を聞くのが不安だったが、何の困難もなく、すっきりと聞こえる。
チェンバロのCDとか、バロック音楽は耳に楽だ。

12月25日再検査。
両耳とも先週より回復している。
これで治療打ち切りということで、2週間分の薬をもらう。
この日は母の命日で、午前中に墓参に行くという。
クリスマス休日なのだが、診察が午前中ということで、心の中で墓参。
昼から「川辺の四季」で昼食。
自然農法で、野菜も何も、障るところがない素直なおいしさ。
玄米ご飯、味噌汁をおかわりした。
おばさま方が多かった。

12月26日ごろから、寝返りをうつ時に目まい感がある。
12月30日ほとんど一日、寝たり起きたりで過ごす。
これは以前からの予定行動なので、明日もこうして過ごす予定。
疲れを癒すために温泉にでも行きたいが、そうした力もないかもしれない。
 

「窓」から「王」へ

昨日は忘年会で、2次会に「窓」。
総勢8人で店を占領してしまった。

昨日は1時半の昼食後4時半まで寝ていたし、
突発性難聴の症状がぶり返している上に起き上がるとめまいがするので、
1次会での食はあまり進んでいなかった。

「窓」を出ると少しばかり食欲が出て、「王」へ5人でいった。
レギュラーの餃子とラーメン。
みんなおいしいと喜んでくれた。

お勘定するときに、店の主人に
「お久しぶりです」と声をかけられた。
「覚えてらっしゃいますか」
と言うと、
「覚えています」

単なる通り過ぎる客の一人だと思っていたのだが、
客商売とはいえ声をかけられると、よく飲みに出ていた頃が思い出されて、
同じ時代を過ごした人々の一人として、
なんだか懐かしいような、うれしいような気分だった。
そういえば、店を移す前からなので、もう二十数年は経つことになる。

「資本主義」

森か林に入って、木漏れ日のつくる影に見入る。
あるいは目を上げて、木々の葉漏れの日差しを、目を細めて見る。

私の欲している音楽とは、そんなものな気がする。

「資本主義」という言葉に、私たちは汚染されてしまった。
「資本主義」の対義語は、じつは、ない。
冷戦構造の中で、私たちは、「資本主義」対「共産主義」と定義づけられたように思っていたが、
共産主義は、資本主義の高度に発達した段階であるはずだった。
(すくなくとも)マルクスはそう定義したと思う。

今私たちは、資本主義の失敗の渦中にいる気がしてならない。
その失敗とは、対義語の設定ミスなのかもしれない。

「資本主義」の対義語は何か。
という命題を解くには、資本主義の前段階を想起すればよいのかもしれない。
それは「王権」なのだろうか。
どうも実際のところ、そのあたりが判然としない。
もちろん、社会学的、歴史学的に対義語を定義できるのかもしれないが、
では実際の私たちは「資本主義」でないものを何だと思っているのか。

つまり、何を恐れて、資本主義であろうとしているのだろうか。
あるいは、私たちの「資本主義」とは何なのか。

たとえば、チェーン店業界。
「売れる」という名のもとにあるが、実は収益主義であり、
それは「拝金主義」と一時期は呼ばれていたのではないか。
そこでは「収益」のあがらぬものは排除される。
価値のないものとして排除される。
その結果として画一化が促進されるのだが、その画一化の裏に「価値」判断がひそんでいることに、
私たちは気づいているのだろうか。

良いものは万人に受け入れられる。
万人に受け入れられるものは価値があり、少数のものにしか受け入れられないものには価値がない。
そして、価値のないものは良いものではない。
そういう判断を、私たちは、自分自身の判断の前に、受け入れさせられてはいないだろうか。

誰にもほめられないものを、得にもならないのに、なしていくことの意味を、私たちは忘れ、わからなくなっていっている。

ペトルーシュカ

ペトルーシュカ聞きつつ眠る夜のバス

花持たず母の墓前に立ちにけり

いらいら

先週から、なぜかイライラしている。
自分の思うようにならないことに対して、イライラしている。
何か、自分が変異しているのか。
それとも、周りが変わっているのか。

ここ一月以上、風邪が抜けない。
そんな体調を反映しているのだろうか。

昨日から呉へ行ってきた。
屋台でおでんを食べて、一泊してきた。

それでも、今夜のバンド練習では、イラッとすることが何度かあった。

要注意、なのだろうか。
口が回らないこともあるし。
言葉が浮かんでこないこともあるし。

いざとなったら、みんな、たのむ。

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