見えないものは見えない。見えているものも見えない。
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「レイン」と、それを呼ぶ人たちがいて、
目の前かあるいは目の中に、あふれる名づけられないものが
感謝のように触れられることを待って並んでいる。
命名することによってそれらはかざされ
人間のように言葉を主張しはじめる
At Seventeen / Janis Ian
Between The Lines(1974)
29日の忘年会の時間をのぞいて、今日の午過ぎまで4日間パジャマで過ごした。
昨夜ふと思いついて、風邪薬を飲んだのが良かったのだろうか、今朝はさほどの目まい感もなかった。
とはいえ、昨夜は寝付かれずに(朝昼とずっと寝ていたのだから、当たり前)午前2時過ぎまで本を読んで、それでも寝付けなかった。
なんだか久しぶりにジーンズとセーターを着た。
「17歳の頃」。
こんな歌に出会えて、よかった。
同じ痛みを持っている人が、ここにもいる。
あれこれ複雑なことや、哲学的なことを考えなくてもいい。
複雑なことや哲学的なことを言う人が、複雑だったり哲学的だっりするわけではない。
魚の目の色をお客さんに説明したり、何も言わずにちらっと目を向ける人が、そうなのかもしれなかったり。
友達がいて、その友達との関係で傷つく人がいる。
でも、そんな友達もいなかったりする人の方が、自分にはなじめるのだと、
ようやく気づいた。
私は多くの人を傷つけてきた。人を傷つけるくらいなら、自分が傷ついたまま泣いていた方が、よい、と思う。
12月9日大事な忘れ物があることが判明したので、急遽職場へ戻る。
車の中でかなり耳が詰まっていることがわかり、特に低音域がワンワンする。
12月10日、休みを取って福島生協病院の耳鼻科へ行く。
特に左耳の聴力が落ちている。
右耳も高音域が落ちている。
鼓膜の検査などもしてもらった結果、突発性難聴という診断。
ステロイド療法をすることに。
点滴がよく効くということだが、毎日ということもあって時間がとれそうもなく、投薬治療に。
12月13日はHJOの川本町でのゲスト演奏だったが、ステージ上でも客席でも、ドラムやベースの音がワンワン頭の中を回るようで、最悪だった。
自分の吹いている音も、遠くで鳴っているようで、よくない。
打ち上げで酒を飲んでいるうちに、楽になってくる。
血の巡りが良くなったか。
12月17日再検査。
聴力はかなり戻っているし、塞がった感じもほとんど無い。
両耳の聴力がそろいつつある。
微少な音量差を聞き取る検査をする。
ついつい一生懸命聞き取った結果、正答率が両耳とも90%以上あり、神経が過敏だといわれる。
「職業病」か。
クリスマス礼拝の練習でパイプオルガンの音を聞くのが不安だったが、何の困難もなく、すっきりと聞こえる。
チェンバロのCDとか、バロック音楽は耳に楽だ。
12月25日再検査。
両耳とも先週より回復している。
これで治療打ち切りということで、2週間分の薬をもらう。
この日は母の命日で、午前中に墓参に行くという。
クリスマス休日なのだが、診察が午前中ということで、心の中で墓参。
昼から「川辺の四季」で昼食。
自然農法で、野菜も何も、障るところがない素直なおいしさ。
玄米ご飯、味噌汁をおかわりした。
おばさま方が多かった。
12月26日ごろから、寝返りをうつ時に目まい感がある。
12月30日ほとんど一日、寝たり起きたりで過ごす。
これは以前からの予定行動なので、明日もこうして過ごす予定。
疲れを癒すために温泉にでも行きたいが、そうした力もないかもしれない。
森か林に入って、木漏れ日のつくる影に見入る。
あるいは目を上げて、木々の葉漏れの日差しを、目を細めて見る。
私の欲している音楽とは、そんなものな気がする。
「資本主義」という言葉に、私たちは汚染されてしまった。
「資本主義」の対義語は、じつは、ない。
冷戦構造の中で、私たちは、「資本主義」対「共産主義」と定義づけられたように思っていたが、
共産主義は、資本主義の高度に発達した段階であるはずだった。
(すくなくとも)マルクスはそう定義したと思う。
今私たちは、資本主義の失敗の渦中にいる気がしてならない。
その失敗とは、対義語の設定ミスなのかもしれない。
「資本主義」の対義語は何か。
という命題を解くには、資本主義の前段階を想起すればよいのかもしれない。
それは「王権」なのだろうか。
どうも実際のところ、そのあたりが判然としない。
もちろん、社会学的、歴史学的に対義語を定義できるのかもしれないが、
では実際の私たちは「資本主義」でないものを何だと思っているのか。
つまり、何を恐れて、資本主義であろうとしているのだろうか。
あるいは、私たちの「資本主義」とは何なのか。
たとえば、チェーン店業界。
「売れる」という名のもとにあるが、実は収益主義であり、
それは「拝金主義」と一時期は呼ばれていたのではないか。
そこでは「収益」のあがらぬものは排除される。
価値のないものとして排除される。
その結果として画一化が促進されるのだが、その画一化の裏に「価値」判断がひそんでいることに、
私たちは気づいているのだろうか。
良いものは万人に受け入れられる。
万人に受け入れられるものは価値があり、少数のものにしか受け入れられないものには価値がない。
そして、価値のないものは良いものではない。
そういう判断を、私たちは、自分自身の判断の前に、受け入れさせられてはいないだろうか。
誰にもほめられないものを、得にもならないのに、なしていくことの意味を、私たちは忘れ、わからなくなっていっている。
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