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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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Structures pour deux pianos

今日は、さみしかったり、嬉しかったり、楽しかったり、腹立たしかったり。
何の原因も理由もないのだが、いろいろな感情が、同時に存在している。
こんなときに、ぴったりの音楽は何か。

ブレーズがこれを作曲したのは、大戦後の廃墟と虚脱感、無力感を表現するに適した手法であったからだろう。
フランスは、戦勝国ながら、敗北と破壊を経験し、勝利もまた敗北感をもたらした。
すべての感情が、静かに存在している。

さみしさ、悲しさ、喜び、憤り、すべてが破壊衝動とその結果の上で、期待とあきらめをもってぎごちなく踊っている。

Structures pour deux pianos / Pierre Boulez / Alfons und Aloys Kontarasky;Klavier
(1952/1961)

 

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セクシュアリティ

セクシュアリティ【sexuality】
性的特質。性的興味。性を意識させることやもの。(大辞林)

sexuality
狭義の性行為だけでなく、性と欲望にかかわる人間の活動全般を指す語。ただしこの語は「セックス」や「ジェンダー」と複雑に絡み合っており、厳密な定義は困難である。セックスは生物学レベルの営みを、ジェンダーは文化的性差を指すとされるが、セクシュアリティはそのどちらをも含み、生殖、快楽、恋愛、自己表現といった多様な領域にまたがっている。ミシェル・フーコーは『性の歴史Ⅰ 知への意志』Histoire de la sexualit; La volont de savoir(1976)において、性が隠されたものであるかのようにみえて、じつは誰もが自らの性を語ることにとりつかれ、それによって自己規定しているという矛盾した事態を指摘した。すなわち性をめぐる言説は、私的領域の中心にありながら高度に公的なものでもある。
一般にこの語が使われるのは「ホモセクシュアリティ」と「ヘテロセクシュアリティ」の区別においてであり、ジェンダーが男女の性差を指すのに対して、セクシュアリティは性的指向、つまり同性愛・異性愛の区別をまず問題にする。(日本大百科全書)

セクシュアリティが性器に帰納されるなら、私たちは、自分の持っている性器によって「傷つけられている」存在だと、言えるのかもしれない。
男性器を持っているがゆえに、男性としての振る舞いを(他者からも自己からも)強制され、女性器を持っているがゆえに、以下同文。

という命題による議論として、私はどこに立っているのだろう。

つまり、私は私の持っている性器によって、傷ついているのだろうか。
少なくとも、私は私の持っている性器によって、私が持っていない性器を持つ者の立場に立つことを、拒否されている存在だといってもよいのではないか。

私は私の持っていない性器を持つ者の立場に、立ちたいと思っているのか?

それより、私は私の持っている性器によって、私の持っていない性器を持つ者の立場を想像することに制限が加えられていることに、疎外感を持っているのではないか。
それは、私は私以外の何者にもなれないという疎外感と同じではないだろうか。

他者理解の限界は、自己理解の限界を、ただちに想像させる。
そして、自己理解の限界が、他者理解の限界を直感させることによって、私は限りなく循環する絶望に至る。

尾形君

私には、尾形君という友達がいます。
小学校6年生の、たしか3学期のある寒い朝、朝礼のために校庭に並んでいると、彼が私の所にやってきたのでした。
「ぼく、尾形といいます。友達になってくれる?」
そう言った彼に私は、うんいいよ、と答えたのを覚えています。

じつは、尾形君との関係は、それだけなのです。
その後別々の中学校へ進んだこともあって、彼と遊んだこともなければ、言葉を交わしたこともない。
彼の姿を見たことすらありません。
もう一度会いたいと思っても、そのすべもありません。

でも、尾形君は今でも、私の友達です。
それは「うん、いいよ」と私が答えたからです。

困っているときに助けてくれたり、いっしょに昼ご飯を食べたり、人のうわさ話をしたりするのが友達だと思っている人たちは、尾形君が私の友達だと、認めるでしょうか。

でも、こんな友達もあるのです。
尾形君のことを思うと、私の心の奥が、ぽっと温かくなるのを感じます。
 

無題

何かを書く気力とか体力が無くて、他人のブログとかtumblerとかを、ぼうっと見ている日々。

つまり人間って、何かを入れるのは楽だが、自分から何かを出すのはしんどくできているのだろうか。
放っておくと人間は自然に肥満するようにできているらしい。

放っておいてだらだら出るようになると、それは下痢。
病気に近い。
 

秋の蚊の

秋の蚊の命奪えり夜半月

レンガの変容

レンガの変容、鼠色の日向に
目を向けたときに、私は
蟹色に溶けていったクロシジミをレンガの
目地にその形を残したちいさな蝶の
苦い舌触りを、思い出しながら洗濯機の絞り器のハンドルを回して母にほほ笑んだ。

詩人とは

詩人とは、ものを見る目だと、何年か前に書いた。

詩人とは、詩を書くことを義務づけられたと自覚する人のことだな。
誰が義務づけたのか、それはどうでもいい。
自分が、それを義務だと思う人が、詩人なのだと思う。

表現とメディアとは、

基本的に、表現とメディアとは、異なるものだな。
今日これまでブックマークしていたブログやら見ていて、ふと気づいた。
誰かに見てもらうことが目的なのは、表現のごく一部でしかない。

十数年前、あるいは二十年くらい前には、
書くことによって自分の考えが明らかになる、
という言説が真実性を持って語られていたのに、
今では「発信」ととらえられている。

誰かに見てもらえなければ、
誰かに届かなければ、
表現として成り立たないのだろうか。

言葉とは、誰かに届けるためだけに、私たちに与えられているのだろうか。

例文を参照して

例文を参照してあらたに自分の考えを
目の前に並べるように述べること
カイツブリ、カニノテ、寒天の中で生きている
目の中にすむそれらの生物
ニシラはワレラの住みかを犯さずにいるのか
 

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