見えないものは見えない。見えているものも見えない。
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七十而従心所欲不踰矩。
【七】
字は切り断った骨の形で象形。~七は聖数とされ、名数として用いる語が多い。文体の名として〔七発〕〔七啓〕〔七諫〕など多くの作品が残されているが、その初義は、列挙的に賦誦することだま的な文学で、一種の呪誦文学と見るべきものであった。「七」はこの場合においても聖数的に用いられ、必ずしも実数ではない。
【従】
~軍事や祭事に随行・随従する意に用いることが多い。
【心】
心臓の形に象る。~心は生命力の根源と考えられていたが、卜文にはまだ心字がみえず、ただ聖化儀礼としての文の字形中にあらわれる。金文では神霊を安んずる寧(ねい)の儀礼、神判における勝訴を示す慶など、やはり神事に関する字にみえ、その他徳や愈など情性に関する字も二十数文をみることができる。文字の展開を通じて、その意識や観念の発達を、あとづけることが可能である。
【所】
~祖霊を祀る所をいうのが原義で、のち君主の在るところにもいう。~また関係代名詞的に用い、受身の語法もある。~
【欲】
声符は谷(よう)。谷に容・浴・裕の声があり、字義にも系連するところがある。容は廟中に祈って、その神容が彷彿としてあらわれること。その下す福を裕という。浴はみそぎ、欲はその神容を見んとねがう意で、欠(けん)は咨嗟詠嘆することを示す。~のち欲は欲望の意となり、欲情・貪欲の字となるが、もとは神霊に接したいという宗教的願望を意味した。文字にもまた、堕落の傾向がある。
【踰】
字統にはない。
「兪」に
~兪系の諸字は、みなこのような兪の正義を受けるのもで、愉・愈・癒はその治癒によって心の安らぐことをいい、輸は他にものを移すこと、移送の意を承ける。
「逾」に
~兪にここより彼に移す意がある。
【矩】
声符は巨。巨は矩の初文。〔説文〕五上に巨をその正字とし、「或いは木矢に従ふ。矢なるものはその中正なり」とするが、その矢の部分は、金文では巨を持つ人の形である。〔楚辞、離騒〕に「榘矱(くわく)の同じきところを求めよ」とあり、榘矱とは法度をいう。
「巨」に
矩形の定規。~字を巨大のように用いるのは鉅との通用義。~
心とは何か。
心とは、感情であるか。考えであるか。
つまり、ロゴスであるか、パトスであるか。
「心」とは「意」とはちがう。
私たちのそれぞれの感情や考えとはちがうところに、心はあると、『字統』は教えている。
「生命力の根源」において、私たちは他の動物たちとどれほどちがっているのか。
たしかに、動物たちは「天」を知らないであろう。
ましてや「天」による「命」によって、私たちが生きていることなど、どれほど知ることができようか。
しかしながら、「生命力の根源」において。
「従心所欲」と「不踰矩」とが、逆接に解釈されていることが多いが、書き下しでも、もちろん本文でも、ストレートに接続されている。
順接といえば順接だが、そこに因果関係をはじめとした関係性は記されていない。
七十で生命力の根源に随従して四角い定規をはみ出さない。
四角い定規とは何だろう。
「天命」とは運命や宿命ではないと先に述べた。
「人々の中にありながら、人々の中の一人として何を為すべきか。
それが与えられたということではないだろうか。」
と私は考えた。
生命力の根源に従って生きるとは、生命力の根源を感得し、認知しなくてはあり得ない表出であろう。
「矩」、定規、枠。
しかしながら、生命にとっての枠とは、生きているということ以外にはあり得ない。
生命力の根源を感得し認知することで、生きている中にある自分を知る。
「学」という限定された世界に生きる決意が、全生命の中にある自分を知るに至る。
ということなのだろうか。
志してから五十五年である。
「夫子の道は忠恕のみ」と曾子は言ったが、「恕」(ゆるす)とは、他者のみでなく自分をもゆるすことなくしては成り立たないだろう。
自他ともにゆるされる道とは、ともに生きている存在にしか過ぎないという認識なのではないだろうか。
そしてそれは、いとおしい。
六十而耳順。
【六】
小さな幕舎の形であるが、その原義において用いられることがなく、数の六にのみ用いる。すなわち仮借字である。~古い字形は∧に作る。陸はこの字形に従うもので、その字は神梯の前に六を重ねた形をしるし、六は小さな幕舎の形と見られるものである。陵の字形にも六を含み、陵と陸は関係のある字であろう。~
【耳】
耳の形に象(かたど)る。~耳は目とともに神霊に接する最も重要な方法であり、その敏きものを聖(せい)という。~さらに目の徳を加えたものを聴(ちょう)という。聴とは耳目の聡明を合わせいう語である。
【順】
~これは水の徒渉すべきところに臨んで、その安全を祈る儀礼を意味する字とすべく、安全を祈り、安全を保証されることが、順の初義であろう。従順・和順・順導・順逆などの意は、その引伸の義で、もと自然の勢に従うことを順といったのである。~
私が目にした解釈で、この句が最も解釈に難渋しているようである。
他人の言葉を素直に聞けるようになった
というのがその多くの解釈であるようだ。
「知天命」の解釈をしくじっているのかもしれない。
天命を知るとは、「知是天命」ではない。
何かが天命であることを知るということではない。
天命というものを知る、天命というものがあることを知る。
という意味ではないだろうか。
「耳順」とは、耳が天からの安全を祈り、安全を保証されること。
神霊に接する身体部分が保証され、ようやく天に接することができたということかもしれない。
五十で天の命ずるところのあるを知る。
六十で天の声に接する。
冷凍されたスイカを解凍するにはいくつかの手順が必要だ
命令すること/同情すること/無視すること/気づかぬこと
嚼むことはこれらのどれにもあたらないことなので
目の前を通り過ぎるものが何であるのか考えると
人間の考えが歯の裏にカチンとあたって止まる
五十而知天命。
【知】
矢(し)と口とに従う。矢に矢誓の意があって、誓約のときに用いるもの。口は※(さい)、祝祷を収める器の形。神に祝祷し、誓約する意の字で、これによって為すべきことが確認されるのである。~知識・知能は、神を祀ることによって神によって与えられるものである。~
【天】
大は人の正面形。その上に頭部を示す円を加えた形で、人の巓頂を示す。~天地にはもとその字なく、天は人の頭頂、地の初文は墜(ち)にして、神梯によって神の降り立つところをいう。~天の思想は、思想として成立する以前に、宗教的な儀礼としてすでにあった儀礼であろう。~〔周書、五誥〕の諸篇には、天命は民意を媒介として表現されるとしており、殷周革命の体験によって、古代の宗教的な観念が、新しく政治思想として組織されたものであろう。〔書〕における天は、概ね民という語と対応する関係に老いて、用いられている。
【命】
令と口とに従う。令は礼冠を著けて、跪いて神の啓示を待つもの。ゆえに神の啓示の意となる。口は※(さい)、祝祷を収める器。神に祈ってその啓示を待ち、その与えられたものを命という。~天命の思想は周初の〔書、周書〕の諸篇にもみえ、周王朝創建の理念であった。~命はもと神の命ずるところであり、天与のものである。〔論語、堯曰〕の末章に、「命を知らざれば、以て君子と為す無きなり」という。孔子が五十にして天命を知ったというのは、その意であろう。~
天命を知るとは、ゆるぎない自信を持つことだろうか、深い諦めに沈むことだろうか。
孔子は「下学シテ上達ス、我ヲ知ル者ハ、其レ天カ」と言ったが、徂來は、これを、次のように解した。・・・・・・この学問上の意識的な努力の極まるところ、学者の「任」という考えに到達した。だが、この考えは何処からともなく自分に現れたのであって、自分の意志や理性の産物ではない。「道ヲ伝フルノ任」を命じたとしか考えられなかった。「我ヲ知ル者ハ、其レ天カ」とは、自分の偽りのない経験である。・・・・・・
・・・・・・人が理想を捕らえるのか、それとも理想が人を捕らえるのかとは、空漠たる問題ではない。それは、現実生活の深い領域に、根を下ろしている、と見た。・・・・・・
・・・・・・下学して上達した彼の意識を見舞った理想は、独り歩きする。動かしがたい事実の姿で、彼に経験されていた。・・・・・・
・・・・・・・昔の人達にとって、天に心有るは自明な事であった。「易」を読んでも明らかな事だし、無論、孔子にしてみても、彼が天を言うどの言葉をとってみても、彼は天と語り合っているのであり、天に心がないとしたら、意味をなさぬ言葉になる。・・・・・・
(フロイトに関して)・・・・・・彼自身が、その重みを一番よく知っていた、彼自身が背負い込んだ重荷である。・・・・・・彼が、その厚い実証的方法の下に圧しかくして了った使命感を、彼は何処から得たか。「天」からというより他に言い方があるのか。・・・・・・
と小林秀雄は「天命を知るとは(考えるヒント)」で書いている。
「命」とは、「もと神の命ずるところであり、天与のものである」ならば、それは「神に祝祷し、誓約する」以外の方法で「為すべきこと」として得られるものではないだろう。
「天命は民意を媒介として表現されるとしており、・・・・・・〔書〕における天は、概ね民という語と対応する関係に老いて、用いられている。」
民と対応する関係にある天の命ずるところが、民の意を介して表現される。
とすれば、「天命」とは運命や宿命といったものではないだろう。
であれば、ゆるぎない自信とも、深い諦めとも無縁のものであるだろう。
人々の中にありながら、人々の中の一人として何を為すべきか。
それが与えられたということではないだろうか。
惑いが消えたわけではないということは前項で述べた。
民衆という人々の渦の中に、海の道のように、かすかに色を変えた道が見えたということなのだろうか。
私たちは人間であることを抛棄することはできない。
物を喰い、排泄し、眠り、目覚め、人に恋し、人に疎まれ、暑ければ汗を流して喘ぎ、寒さにはふるえているしかない。
そのような渦の中にいることが、しだいに分かってくるということなのだろう。
五十で天に誓約することで天の命ずるところを与えられた
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