見えないものは見えない。見えているものも見えない。
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冷静ではなかった今日の一日をふり返ってみる。
眼鏡を買ってから三年半で初めて洗浄したのが、三日前。
硬くなっていく背中をほぐそうと、低周波治療器を再開したのが昨日。
面倒なことが山積みだと思っているのだが、気分は三十分おきに変わる。
ニュースを読み上げる声が水の奥から聞こえてくる。
去年のことだが、妻と町内を歩いていると、大胆な顔の模様の猫に出会った。
ひそかに「ピカソ」と名付けたのだが、それ以来見ることはない。
元気でいるのだろうか。
「自分の欠点」とは何だろうか。
少なくとも、ある点が欠点であると自分で認めるということは、自分を客体化しているはずである。
ということは、「欠点」とは自分が他人に対して、認めることができない/許すことができないと感じている、何らかの性行ということになろう。
とすれば、自分を許容できれば、他人を許容できるはずだ。
「自分を愛するように、人を愛する」とはそういうことだと思う。
同時にそれは、他人を許容することは自分を許容することでもある。
・・・・私は自分に甘いのか?
たぶんそうだろう。
私が愛してきた人たちは、私が好きだと思うところを自分自身では嫌っていた。
たぶんそれは、自分以外の人たちから、それが欠点だと教わったからだろう。
「憎しみの連鎖」とは、実にこんなところに存在しているのである。
顔の造作について言っても、鼻の高低とか、歯並びとか、チャーミングポイントは他人と異なっているところなのに、他人と異なっていることが欠点だと思ってしまう。
いくらか腹を満たすだけの食事と、少しだけ脳みそをしびれさせるお酒があれば、幸せではないか。
たぶん私は欠点だらけの人間なのだろう。
でも、欠点だけをみていても、酒は美味くならない。
他人を悪く言わないことは、母の無言の遺言であったが、ありがたいことだ。
実行できているわけではないが。
冷蔵庫の中のにおいのような気がした、定食屋のにおい。
瞑想の中ではない、昨日の懐かしい記憶のくり返しの中が、
確実な今日になることを、くり返しの中では気づきもしなかった。
目が語ることは何もなかった、目が語りかけることは何もなかった。
逃げようとする自分の目を私は信じることはできない。
連続しない大気の湿度が、ようやく高まってきたようだ。
目立たなかった季節の変化が、しだいに「例年」に近づいているようだ。
寒暖計によらない、ヒフにまとわりつく湿度が、
めんどうな季節になっていくのを、たえられそうにない年齢になっていく。
似かよった人たちが、向こう側の舗道を歩いて通り過ぎたのに気がつかない。
靴べらを無くししバスの席の色
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