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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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夜の桜

バンドの練習が終わって車で送ってもらう。
車を降りて見上げると、芽ぶく前の桜の枝越しに、滲んだ半月がかかる。
桜は日の光だけで育つのではない。
夜の桜が美しいのは、月の光を浴びて育つからかも知れない。
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畠にもならでかなしき

畠にもならでかなしき枯野   与謝蕪村

この前まで建物があった所が、更地になり舗装されてコイン駐車場になっている。
昨日今日の話ではないが、人が、おのれの人生の時間を割き、心をくだいて働くよりも、機械まかせの駐車場の方が銭になるというのだろうか。

芥川龍之介『トロッコ』とニートさんたちのなかで、私は、
> 仕事とは世界(日本的に世間といっても良い)と自分を結びつけるものだ
と述べた。
たしかに、労働は金銭と直截に結びつき、私たちはまさに糊口をしのぐために、働いている。
しかしながら、労働(仕事)と金銭がまったきイコール関係になってしまえば、現今の状況は理想的状況といわねばならない。
労働者は、自らの才能(肉体も含めて)を金銭に置き換えているわけだが、それが論理のすべてなら、今の日本の状況は理想郷でなければならない。

 福田康夫首相は十日、大田弘子経済財政担当相に対し、日本の労働市場で正規雇用の割合を増やすことが必要だとして、実現に向けた具体案を早急に取りまとめるよう指示した。大田経財相は対策について検討に着手した。

 パート、アルバイト、派遣社員、契約社員などの非正規雇用者は、雇用者全体の約三分の一を占めている。非正規雇用者の割合が多いために、日本全体の賃金水準が上がらない面がある。首相はこうした現状を打破するために、大田経財相に対策策定を命じた。

 首相は、企業の賃上げが十分であれば消費が増え、経済全体が拡大するとの問題意識を持っており、既に日本経団連の御手洗冨士夫会長に今春闘で賃上げに努力するよう要請している。

東京新聞 TOKYO Web 2008年3月11日


非正規雇用者=つねに非雇用状態と隣り合わせにいる人たちが、どのように世界(世間)と結びつけられていると言えるのか。
私は一応正規雇用状態で過ごしてきているが、世間と結びついているという感覚が、日に日に薄れていく気がしてならない。
私が相手にしているのは、金銭的状況なのだろうか。

人は、人たちの中に自分が位置づけられていることを確信したときに、自らの意味を見いだす。
それが、たとえ反社会的であろうとも。
しかし、今私たちが直面しているのは、非社会的状況ではなかろうか。

人と人とのつながりの糸が多ければ多いほど、私たちは豊かだと感じる。
切断を前提とした非正規雇用とは、じつは正規雇用者にも同じ状況なのである。
「痛みを分かち合う」ことより、わずかなパンを分かち合うことの方が、私たちに豊かさをもたらす。

「畠にもならで」とはもともとからある荒れ野ではない。
それならばたんなる「枯れ野」である。
わざわざ蕪村がそう言ったということは、耕されることを放棄され廃棄されたことが前提としてあるからだ。

コイン駐車場となったコンビニで働いていたあのお兄ちゃんやお姉ちゃんやおばちゃんたちは、今どこでどうしているのだろう。
人と人とのつながりの糸が多いほど、それは豊かな生活と呼ばれる。
わずかな労賃で人と人とのつながりを維持していたお兄ちゃんやお姉ちゃんやおばちゃんたちは、糸を断ち切られたのだろうか。
少なくとも、一本の糸は断たれたのである。

こうした豊かさから遠ざかっていく今の中に、(正規雇用者も非正規雇用者も)私たちはいるのである。

風を切って走っていくトロッコの中で良平が目にした蜜柑の色も、鼻をくすぐった香りも、暗闇の中に遠く消え去っていこうとしているのである。

へなちょこ俳諧 他一句

 へなちょこ
月満ちて 歳にへかるる 土の壁

 その他
沈丁花 咲けどもいまだ 匂いせず

私が何かを考えているということ

更新がひと月以上あいてしまった。
2月10日には「リセット」があり、Yesをやった。というか自分にはあまり出番はなかったけど。
年度末をひかえて、というか、年度末の準備のために(?)あたふたと時間が過ぎていった。
何かを落ちついて考えることがなかった。
たとえば民主主義と少数派の件であるとか、人は人を教えることが好きなのではないか、そしてそれは人はお金とものを交換するのが好きだというのと同じように、生来の性質なのではないかとか、個人情報とは何かとか、ネタはあるのだが思考が続いていかない。


私が何かを考えているということは、考えている何か以外のことを私は考えていないことになる。

言葉とは排他的であるところに、その存在基盤がある。
言葉が包括的存在であれば、まさに「猫も杓子も」ということになる。

古語としての「あはれ」を辞書で引くと、九つの項目がある。
かつては「あはれ」一語で表していたものを、私たちは九つの言葉で表している。
さらに各項目に二、三個の現代語がある。
たとえば、かわいい、いとしい、なつかしいの三語が一つの項目にまとめてある。
私たちはかわいいといとしいという二つの言葉の間には、何らかの差異があると思わざるをえない。
なぜって、言葉/単語が違うから。
つまり、「かわいい」は「いとしい」(のいくらかの部分)を排除しているのである。
そして「あはれ」から「かわいい」まで言語がたどった時間は、排他的に経過していると言える。

私たちが考えるときに、言葉を使う以上、私たちが考えるということは排他的にならざるを得ないのだろう。
「ねこ」という言葉を発しながら犬を想定することはできない。

私が何らかの詩を書いたとき、その詩の周囲に、私に書かれなかった世界が、ある。
私に書かれなかった世界を背負った詩というものが、可能なのか。

言葉は私たちの中から湧き出てくるものではなく、私たちの外部に存在しているものである。
私たちはまるで水中の魚のように言葉の海中を泳ぎ、その立てた水の濃淡が、波動となって他人に伝わる。
そうした行為の残滓として、行為が行われたことの確証として、言葉が存在するなら、私はその波動をたどって、包括的世界の存在を認知できるのではないだろうか。

猫の恋

IMG_0202.jpg

 妻なる人の思いにかわりて
恋猫の顔を避くるや梅の夜

自由民主主義体制の下での少数派とは

自由民主主義体制の下での「少数派」、「多数派」とは何か。

じつは、私の頭の中には、学校時代の学級会とか、職場での会議みたいなものしかイメージがない。
あれって、自由民主主義なのか?
そもそもあれは、「民主主義」と言われていただけのような気がする。
「自由」が抜けている。
そして「民主主義」が何によって具現化されるかというと、「話し合い」と「多数決」によってなのである。

多数派になるのは簡単だ。
みんなの考えていそうなことや、発言に耳を向けて、場の雰囲気に注意していれば、多数の一人として手を上げることは容易だ。

少数派になるのは?
『笑っていいとも』だったっけ、質問をしてその答えが一人だったらストラップがもらえるのは。
他人の考えを推量しても、それが少数であるかどうかは容易に推量できるものではない。

多数派になるのは簡単だが、少数派になるのはフタを開けてみるまではわからない。
少なくとも私の経験に基づけば、そうなる。
そして少数派は、様々な意見や考えに彩られ、最終的にはばらばらである。
そりゃそうだ。統一された意見の少数派というのは、論理矛盾であろう。

「自由民主主義体制のもとでの少数派、あるいは多数派とは何か。」
自由民主主義体制とは、議会制であると言い換えていいのかわからないが、議会制は不可欠の要素であろう。
日本に於けるそれは、衆議院と参議院であれば、その議員構成から少数派を割り出すことができる。
(参照)衆議院の会派名及び会派別所属議員数
(参照)参議院の会派別所属議員数一覧
衆議院では、「国民新党・そうぞう・無所属の会」というところに分類されている人々が6人で、少数派。
参議院では、「社会民主党・護憲連合」に分類されている人々が5人で、少数派。
ちなみに多数派は、衆議院では「自由民主党」(305人)、参議院では「民主党・新緑風会・日本」(119人)。

つまり先日の問いは、次のように解釈できる。
衆議院で国民新党・そうぞう・無所属の会は、どのような役割を果たす「べき」であり、また自由民主党は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?
そして、
参議院で社会民主党・護憲連合は、どのような役割を果たす「べき」であり、また民主党・新緑風会・日本は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?

う〜ん。こうなると私には皆目見当がつかない。
せいぜい、「それぞれの立場で、それぞれの役割を果たしてください」としか言いようがない。
それぞれの会派の主張を調べて、それにたいして何らかの意見を述べることはできるだろう。
が、そんなタイギイことする気はない。
つまり、そんなタイギイと感じるから、代議員制度がある。
代議員は投票によって選出されるのだから、少数会派の代議員というのは少数意見によって支えられていることになる。

選挙制度というのは、選挙民の無責任によって維持される制度である。

日本国憲法 第十五条 4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない

自分の意見を具現してくれそうな代議員に投票し(しかも無記名)、代議員が具体化した政策が失敗であっても、投票者は責任を問われない(そもそも無記名なので問いようがない)。
もし記名制で、政策に責任を問われるのなら、ただでさえ低い投票率はかぎりなくゼロに近づくだろう。
私達は責任なんて取りたくないのだ。
権利は手元に置いておきたいが、義務はできうるかぎり見えないところに置いておきたいのだ。
民主主義というのは、そういう人たちのためにできた制度なのである。
制度に関する選択において、いちいち責任を問うていれば、斬首やハラキリが絶えないだろう。
近代の政治制度は、そうした架空の無名性、匿名性の上に成り立っているのである。
「法の下の平等」とはじつはそのことなのである。

匿名とは何か。
名を隠すとは、自分が自分でないことを宣言することである。
匿名とは、実体を隠してこそこそと悪事を働くことではなく、自分が自分でなくなることを容認し、自分が自分でなくなることを容認した人々の中で、自分が自分でなくなるというまるで雑煮の餅が溶けてひっついているような事態の中にいることを覚悟することなのである。

多数派も、少数派も、取るべき態度は自ずと然りなのである。

自由民主主義体制の下で少数派は、どのような役割を果たす「べき」か

次のような質問があったので、以下のように考えてみた。


質問1.自由民主主義体制の下で少数派は、どのような役割を果たす「べき」であり、また多数派は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?

質問2.1.の回答を踏まえ、日本の現状をどのように評価していますか?



質問の文脈上、「べき」は義務の意と思われるが、法制上、少数派及び多数派の義務は規定されていないはずなので、これは道義的、心情的義務と考えてよろしいと思われる。

しかしながら、この質問は順序が逆なのではないかと思える。
少数派があって、多数派が生じるのではなく、多数派が生じた結果、少数派である自分を発見するのが、私の経験的認識である。
そのような私的な経験にもとづいて言えば、多数派の意見が絶対的に正しいのではないということを認識させる役割を、少数派は担っている。
しかしこのことは、多数派から要請された役割ではなく、少数派に位置づけられた自分が、「体制」の中にニッチを見つけ出す必要に迫られた行動だ。

というのがわからない人がどうも最近増えているように思える。
「体制」(会社とか、仕事とか)に反対的意見を述べると、「いやなら、やめたら」という返答がいとも簡単に述べられるケースが日常的に増えているように思う。
郵政民営化をにらんだ小泉自民党のとった行動の影響ではないかと、私は考えるのだが。

これは、「自由民主主義」が無定見に「経済至上主義」と手を結んだせいだと、私はかねがね考えている。
「自由民主主義」とはじつは、「やせ我慢」、「武士は食わねど高楊枝」的精神の上に成り立っているのだと思う。
「自由」とか「民主」というのが「自分の自由」や「私が主人公」であることと、それが「主義」であることとは同時成立しない。

白川静は「義」の字義を『字統』でこう解説している。
「羊と我に従う。我は鋸の象形。羊に鋸を加えて犠牲とする意で、牲体に犠牲として欠陥がなく、神意にかなうものとして「義しい(ただしい)」の意が生まれる。」
つまり、「主義」の「義」とは、神(=自分ではないもの)によってその正当性が保証されることを表しているのである。
こうした字義からも、「自由民主主義」が自己中心とは正反対の立場に立つことがわかるであろう。

こう考えてくると、少数派も多数派も、とる「べき」立場・行動・対応は、明らかである。

という理想論がどの程度説得力を持つのか、不安であることは言うまでもない。
今の日本において、「生活」あるいは「生存」という言葉で、個人個人の欲望が保たれている。
そうした自己中心的欲望すらも保証するという日本の現状は、真の意味で「自由民主主義」なのかもしれない。
そういった観点からみれば、戦前の軍部独走の状態も、「自由」で「民主」であると言える。
戦国時代の領主、江戸時代の藩主の実体は、いかに民を安んじるかに腐心していたことか。

同じく『字統』には、「主」の字義として、
「灯火の火主の形。上の小点が火主、下部は鐙(あぶらざら)の形である。・・・〔礼記、小儀〕に、飲酒の際に主人が自ら火を執る礼をしるしている。主人・家長の意は、聖火を執るものの意から出たものであろう。・・・」
と記している。

自分が「主」であることもまた、自らに拠るものではなく、自分ではないものに根拠があるのである。
そこに「民主」の本義をすえなければ「民主主義」と名告ることは許されないであろう。

夕暮れて

夕暮れて虫の死にたる冬の雨

暮れの雨動かぬ虫を見つけたり

墓棄てられて

   母の墓に参って

小春日や墓棄てられて土の色

供花買い挿す所なく冬の土

『杜子春』

1920年(大正9年)に雑誌「赤い鳥」に発表した子供向けの短編小説。

『蜘蛛の糸』と比べると、なんだかとっちらかっているような印象がある。
『蜘蛛の糸』では一声を発することで地獄へ真っ逆さまに落ちたが、この作品では一声を発することが落命から主人公を救う。
もちろん、一方は他人を蹴落とそうとする利己心から発し、もう一方は肉親の情から発したのであるが、『杜子春』と『蜘蛛の糸』の落差、あるいは位相差は何によって測りうるのか。

先日の論考で述べたように、『蜘蛛の糸』で芥川が描こうとしたのは、一見主人公に見えるカンダタの無慈悲ではなく慈悲ゆえ無慈悲である釈迦であった。
では『杜子春』において、芥川が描こうとしたのは、杜子春ではないとすれば何か。
私がこのように問いを措定するのは、芥川ほどの作家がたとえ児童向けの作品であったにせよ、教訓譚に終わって満足したかという前提があるからである。
杜子春を主人公に置くかぎり、教訓譚におわってしまう危険性が濃厚にある。
私たち読者は、そのように作品をとらえることで、容易に理解を終えることができるからである。
しかし、そうした理解は作品理解のほんの一面であるにすぎないことを、私たちは覚悟しておかなければならない。
真にすぐれた作品は、多面体である。
作者は、どのジャンルであれ、矛盾のない、破綻のない多面体を作りあげることに腐心する。
教訓を引き出すことなく作品を受容することが、真の作品理解につながっていく。

『杜子春』という作品において、作者芥川が嬉々として描いているのは、洛陽西門の日暮れの物憂さではないか。
「しつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子」も、杜子春の持つ物憂さが、じつは、落ちぶれた境涯に対する憂鬱ではないことを物語っているように思える。
物語は、常にその場所に戻っていく。
その場所で、「突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人」が一度目は「頭に当たる所」、二度目は「胸に当たる所」、三度目は「腹に当たる所」を掘れと言う。
頭、胸、腹と部位が移っていくあたりは、肉感的でもある。

三度目の示唆を断った杜子春がたどった経緯は、とくに意味のあることではなかろう。
「腹に当たる所」を掘ることを断った杜子春は、「頭に当たる所」を掘る前の彼に立ち戻るだけである。
その最初の彼に立ち戻るきっかけになったのが、一声を発することであった。
夢にうなされ、自分のうめき声で目が覚めるように、杜子春は最初の場面の自分に戻っていることに、自ら気づくのである。
立ち戻った自分は命は失いはしなかったが、地獄へ堕ちずにすんだのか。
「桃の花が一面に咲いてゐる」「泰山の南の麓」の「一軒の家」は極楽なのか。

発してはならなかった一言を発したカンダタは、釈迦の慈悲の視線を得た。
発すべき一言を発した杜子春が得たのは、一軒の家に象徴される「人間らしい、正直な暮し」であったが、それを描いた芥川龍之介は持ち前のシニカルな視線を失った。
残ったのは、夢のような中国の風景だけである。
芥川にとって、一言を発することは、地獄へ堕ちることであったのである。

『或る阿呆の一生』に描かれているのは、彼の審美眼の前に広がる情景に対して、まさに「阿呆」のように口を開けたまま沈黙している自分自身の姿ではないか。
一度手を離れたものは、二度と戻ってはこない。
二度と戻ってはこないものを描いたのが『或る阿呆の一生』という作品だった。

発してはならない一言を発すること。
発すべき一言を発すること。
どちらも地獄に暮らす結果なら、どちらをとるべきか。

芥川の結論は明快である。

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