見えないものは見えない。見えているものも見えない。
理解が和解を生むというのは誤解かもしれない。
理解ゆえの対立は、理解といえないのだろうか?
「食べるものを作る」
「食べる・もの(を)・作る」
「食べる」という動作の対象は「もの」、なのか?
「作る」という動作の対象は「もの」、なのか?
では、「食べる」という動作と、「作る」という動作が、どう結びつくのか?
そしてそのときの、「もの」はどういう働きをもって、ふたつの動作の間に立っているのか?
「を」は、「食べる」と「もの」を関連づけ、
さらに「もの」と「作る」を関連づける。
助詞という付属語は、自立語というセルの隙間を流れることで、セルを緩やかに接着する。
助詞という付属語の働きは緩やかでかつ流動するので、「食べる」と「もの」と「作る」というみっつの自立語は、容易にその位置/働きを変える。
このように、言葉というものは、現実に目の前にしていても、流動的にその姿を変える。
一瞬たりとも、同じ形を見せることはないように思える。
・・・・たぶん私は疲れている。
数日後の夜、入院中の父が錯乱しているので来てくれと、病院から連絡が入った。
妻と二人で行くと、どうも父の頭は昔の中にいるようで、興奮している。
妻になだめられている父を前に座って、流れ出す涙をそのままにしていた。
そのとき自分が思っていたのは、父が格好いいということだった。
何かに腹を立てている父の顔は、昔と変わらず、あるいはそれ以上に、素敵だった。
私はこの二つの涙の理由を知らない。
涙の理由を名づけたときに、私の感情は姿を現す。
津波の映像は、私にプリミティブな恐怖の感情を呼び起こしたと名づけられる。
が、父を前にして涙を流させた情動に、私は名をつけることができないでいる。
それは懐かしさに近いものだった。
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