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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

尾形君

私には、尾形君という友達がいます。
小学校6年生の、たしか3学期のある寒い朝、朝礼のために校庭に並んでいると、彼が私の所にやってきたのでした。
「ぼく、尾形といいます。友達になってくれる?」
そう言った彼に私は、うんいいよ、と答えたのを覚えています。

じつは、尾形君との関係は、それだけなのです。
その後別々の中学校へ進んだこともあって、彼と遊んだこともなければ、言葉を交わしたこともない。
彼の姿を見たことすらありません。
もう一度会いたいと思っても、そのすべもありません。

でも、尾形君は今でも、私の友達です。
それは「うん、いいよ」と私が答えたからです。

困っているときに助けてくれたり、いっしょに昼ご飯を食べたり、人のうわさ話をしたりするのが友達だと思っている人たちは、尾形君が私の友達だと、認めるでしょうか。

でも、こんな友達もあるのです。
尾形君のことを思うと、私の心の奥が、ぽっと温かくなるのを感じます。
 

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フランクゲーリー

ラジオによりヒトは字を読まなくなり
テレビによりヒトは考えることをしなくなり
インターネットによりヒトは人間性を失う

というフランク・O・ゲーリーのことばのソースを探しているのだが、出てこない。
示唆に富んだことばなのだが、なぜ「ヒト」とカタカナなのかとか、どういう場面でだれに向けられたことばなのかとか、知りたいのだが、なかなか分からない。

どうしてこのことばが私たちの心をとらえるかというと、
1)私たちが字を読まず、考えることをせず、人間性を失った存在であるから。
2)私たちの周りには、字を読まず、考えることをせず、人間を失った存在があるから。
3)それらの原因が端的にラジオであり、テレビであり、インターネットであるから。
4)自分は、そこそこにラジオを聞かず、そこそこにテレビを見ず、それほどまでにはインターネットをしていないと思っているから。

なんと言っても、このことばが今のところインターネットからしか流れてこないことが、
象徴的だ。
このことばに出会った者は、もはや人間性を失っている可能性が高いのだから。
そしてそのことばに信憑性を感じているのだから。

このことばの分析は私の興味を引くものだが、
インターネット批判をインターネットでしようとしている自分とはなんであるのか。
このことばを(良いことばとして)インターネットで紹介することとどうように、
おかしな(funny)ことではないだろうか。

このことばをインターネットで扱うことは、鏡を合わせるように、映しだされるのは自分だけであり、
それは滑稽な姿をしているとしか思えないのだが。

知天命

子曰、吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。

小学校の低学年の頃だったが、「世界の偉人伝」という本を父親が買ってきた。
ソクラテスや、なんやかんや、いろいろあった。
中にはフォードの話もあって、せっかく自動車を組み立てて動かし始めたのはいいが、出口が小さくて、慌ててハンマーで出口を壊したという話があって、なんて馬鹿なやつだと、幼心に思ったことを覚えている。

そんな中で、その後も折に触れて思い出したのが孔子の話だった。
話の最後のシーンで、宮殿に招かれた孔子が、まん中は王の道であるから、自分は端を歩くと言ってその通りにしたというのが、規範のようにわたしの心に残り、今でも残っている。

いろんな話がある中で、その話が印象深く心にのこったということは、
わたし自信がそんな人間として生まれたのだと、思える。
・・・それとも父の教育なのか・・・

自分も五十を過ぎたので、孔子の言う天命が少しでもわかるかと思ったが、わかったようなわからないような。
それはそれで仕方がないだろうと、言い訳をしてみる。
なぜなら、この言葉は、孔子が少なくとも七十歳を越した時の言葉だからだ。
過ぎてみなければわからない、というのが自分であろう。
過ぎてみてもわからない、というのが本当のことだろう。
でも、気になるので、考えてみる。

子曰、吾
十有五而志于学。
  三十而立。
  四十而不惑。
  五十而知天命。
  六十而耳順。
  七十而従心所欲、不踰矩。

十五歳で学問で身を立てることに志し、三十で自分の考えをもった/教団を作った/教えを説き始めた。
学問すること15年である。
現代日本では、6・3・3・4で16年、大学院まで行けばさらにかかる。
まあおおざっぱに言って、孔子も同じくらい勉強したということか。
15年たって、自分の考えで生きるようになったってことか。

四十歳で惑わない。
惑うとは何?
誘惑にあう。/この道でよかったのか不安になる。/うまくいかないことに思い悩む。
ことがなくなった。
孔子のような体格のよい、鬚ぼうぼうの豪傑風の人が言うと、居直りとも楽天主義とも思える。
四十歳の時は迷いがなかったと解すれば、イケイケだったと。
私も、その頃のことを思い出せば、イケイケだったといえばそうだったもんだ。
人の批判なんか屁でもなかった。・・・けっこうめげたりもしたけど。

とすれば、「知天命」とは、まあそれでいいんじゃいかと、悟ったというか、居直ったというか。

で六十で人のいうことに腹が立たなくなり、
七十でおとなしくなった、ってことか。

わしも若い頃からずっと思う存分やってきたが、ようやく落ち着いたかの。

てなもんか。

子の道は忠恕のみ
と弟子の子貢は言ったというが、
自分にいちばん欠けていたからこそ、孔子は「恕」(ゆるすこと)を一番の徳目として、自分の額に貼り付けたような気がする。

「子曰」とは単純に先生が言ったと解すれば、孔子の述懐を興味深く聴いている弟子たちの表情が見えてくる。
孔子の昔語りだと、単純に割り切ってはいけないのだろうが、
その昔語りから自らを振り返り自分の道を見つけていったのが彼の弟子だとすれば、
案外に、七十を過ぎてかつてのとげとげしさを懐に隠して目を細めている孔子の表情を描いているのかもしれない。
好々爺としたその表情から、自分の生き方を探ろうとしている弟子たちのまなざしをこそ、想像するべきなのかもしれない。

「わしもやんちゃばかりやってきたがの・・・」と語る孔子の顔を見つめるまなざしが、「子曰」の本当の意味なのだろう。

レントゲン

十二年前だったか、尿路結石に罹ってようやくの思いでたどり着いた病院で撮ったレントゲン写真を見たとき、
背骨や骨盤、腎臓と尿管の映像が、あまりに型どおりであったことに、なんだか憑き物が落ちたような感じを受けたことがあった。
あたりまえといえばあたりまえの映像だが、その時まで自分がそのような構造をしていることに思いが至ることがなかった。

してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな
(「無常ということ」小林秀雄)

知識や知見として、人間とはこんな形をしていると、私たちは知っているのだが、
自分がその形をしているとは、まったく意識することなく私たちは生活している。

知識と、実感あるいは自己認識というものは、このようにまで乖離しているのだろう。
その乖離が、人間は一種の動物であるという小林秀雄の感懐に重なり合う。

私たちは、ごく些細な差異を見つけて、おのれの独自性を主張したがる。
そういう動物なのだろう。
まるで、縄張りを主張するように。

思想

8月は前半たいへんで、何かを考えたりできなかった。

思想とは何か。
この命題で思いつくのが、共産主義思想の凋落である。
しかしながら、思想とは主義のことなのだろうか。
共産主義も自由主義もじつは経済に対するひとつの立場であれば、それが正しいか正しくないかは、人々の経済活動の実際に適合するかしないかということの言い換えになるだろう。
じっさい、ソビエト共産主義は経済の行き詰まりによって崩壊し、中国共産主義は資本主義経済に修正しつつある。

今、人々が拠って立つ思想というものがあるのか。
多くの人々が自らの考えや感想や反応といったものを、発信する機会を手に入れた今、思想というものが人々の準拠するに足るものとして成立しうるのか。
あるいは、そうした自らの考えを発信していると考えている人々を、さらに大きく包み込んでいるものが思想であると、私たちは考えることができるのか。
つまり「無思想の思想」といったものが、成立するのか。

8月の終わりに、問題提起だけを、取り敢えずしておく。
この項、つづく。

シャーマニズム

NHK教育テレビ『地球ドラマチック』2007年10月24日(水)放映『発見!シベリアのミイラ』を見た。

ヤクート族の古い墓を、フランス人研究家が発掘するという番組だったが、
あれは、「墓を暴く」といった印象で私は見始めていた。
300年前の墓だというが、地元のヤクート人たちも墓を暴くことに恐怖を覚えていた。
その感情が自然に理解できる私というのは、やはりモンゴロイドの一族であった。

墓には死者がおり、死者は私たち生者とは違うあり方で存在している。
死体であっても、それは何らかの霊的存在であり、霊的存在であることによって、生者と変わることのない存在である。
さらに死体がなくとも、死者は霊的存在であるいじょう、そこに「存在している」。
日本人の多くが、その信仰の体系が(無信仰も含めて)異なっていても、そのことを「信じている」。

信じるとは、信仰とも、知識とも、認識ともちがう。それらを薄く、しかし確固と覆って破ることのできない、感覚的、感情的、そして肉体的な体系である。
それは文字どおり「開かれていない」という意味で、「未開」な体系である。
しかし、「開かれていない」ことが、単純で、蒙昧で、愚かであることを意味しはしない。
むしろ複雑で、示唆に富んでいさえする。
それは単純な「公式」へと抽象されていないだけで、「公式」が全ての個別にあてはまり(つまり開かれて)、「公式」を識ることで全てが解き明かされるという理解のもとでは取りこぼされる多くのものに、直な目を向けるという姿勢をともなわせる。

この世界は単純な「公式」によって開かれているのではなく、個別性の複雑な絡み合いによって閉ざされているのである。
そしてその個別性の複雑な絡み合いのすべて(実際には不可能だが)をたどることで、私たちは世界に開かれ、世界は私たちに開かれているのである。

私たちは絡み合う個別であり、個々が絡み合っていることを知っている。
そうした絡み合いの結節点を見ることのできる者が、シャーマンと呼ばれる者たちである。

番組に登場した300年前のミイラは、白人との接触によって結核に冒されて死んだシャーマンの女性であることが、明らかにされた。
300年前の死者が、その死によって、いまだにヤクートの人々に恐怖を与えていたのである。
その恐怖を、無知であると言うことはできる。
無知ゆえの恐怖を、私たちは嗤い、憐れみ、導くことはできる。
しかしそれは「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(マタイによる福音書15章14節)
私たちは、「公式」によって取りこぼされてしまうものがあることを知らない世界に生きているのだから。

番組を見ながら、平たい太鼓を鳴らしながら低く歌い、全てのものの結節点をたどり続けるシャーマンの姿が、私の頭の中にあった。
思えば私の詩も、文学ではなく、自己表明でもなく、言葉がたどるものをたどろうとしているということにおいて、またシャーマン的なものであった。
そう思った次の日、私はまた新しい詩の着想を得た。

さま

話題としては少々古いが、職場の近くに、
『患者さま 駐車場』
とでかでかと看板が出ているのに気づいたので、考えたことをちょっとだけ。

さま 2
接尾)
[一]
(1) (ア)人を表す名詞または身分・居所などに付いて、尊敬の意を表す。
「中村―」「お母―」「殿―」「仏―」「公方(くぼう)―」
(大辞林)

さん
(接尾)
〔「さま(様)」の転〕
(1)人名・職名などに付けて敬意を表す。また動物名などに付けて、親愛の意を表すこともある。
「山本―」「お父―」「課長―」「お手伝い―」「お猿―」
(大辞林)

ちゃん
(接尾)
〔「さん」の転〕人名または人を表す名詞に付いて、親しみをこめて人を呼ぶ時などに用いる。
「太郎―」「お花―」「おばあ―」


敬意を比較すると、
「さま」;尊敬の意を表す。
「さん」;敬意を表す。親愛の意を表すこともある。
「ちゃん」;親しみをこめて人を呼ぶ時など。
尊敬の意と、敬意を「大辞林」は区別しているようなので、
敬意は「さま」>「さん」>「ちゃん」となろう。

実際の用法でも、例えば「山田さま」「山田さん」「山田ちゃん」と考えればそうであることがわかる。
あるいは、「おかあさま」「おかあさん」「おかあちゃん」。

これらの接尾語を発する者が、接尾語を付ける対象に対してどのような意識を持っているかが、その発語を聞く者にわかるというものである。

では、次のような用法はどうか。
「(お)殿さま」「殿さん」「殿ちゃん」。
「お医者さま」「お医者さん」「お医者ちゃん」。
「(お)犬さま」「犬さん」「犬(わん)ちゃん」。

本来社会的に当てはまる位置にあるものに適合しない用法が、上位の接尾語を使っても、揶揄や軽侮の意味合いを持ってくることがわかる。

『患者さま』という用法が、違和感(ひとによっては嫌悪感)を抱かせるのは、そんなところにあるのかもしれない。
せいぜい「患者さん」だろう。というのが、正常な感情だろう。
「殿さま」「お医者さん」「わんちゃん」というのが、それぞれ「殿」「医者」「犬」に向かって言うときの正常な用法だというのと同じである。

いくら敬意を持っている/持っていないとは言っても、社会的な位置に適合しない使い方をすれば、それは「世間知らず」と呼ばれるのである。
「さま」「さん」「ちゃん」そのものだけが、敬意を持っているのではないし、使い手の敬意が決定するものではないのである。


用法を比較すると、
「さま」は人を表す名詞または身分・居所に付く。
「さん」は人名・職名などに付けて敬意を表す。また動物名などに付けて、親愛の意を表すこともある。
「ちゃん」は人名または人を表す名詞に付く。

面白く思うのは、「お猿さん」とは言うが「お犬さん」や「お猫さん」とは言わないことである。
猿の方が人間に近いからだろうか。
「象さん」や「キリンさん」は?
「パンダちゃん」とは言うが、「パンダさん」とは言わない。
やはり人間社会の中で、それぞれの位置づけがあるのである。

だいたい動物に「さん」や「ちゃん」を付けるのは、いわゆる「幼児語」の範疇であろう。
幼児にとって「ちゃん」と呼ばれるのが水準であるとすれば、それより上かどうかということが、これらの用法から理解されるだろう。
そして「さま」を使わないことも。

さらに先ほど、「揶揄や軽侮の意味合いを持ってくる」と述べたが、それは接尾語の対象にではなく、そういう使い方をしている発語者に対する揶揄や軽侮となっている。
「お犬さま」がその例であろう。

まあ、「俺が患者になってやったから、おまえらが飯を食っていけるんだ。せいぜい尊敬してくれ」と大見得を切ったら、お医者さまは何と答えるだろうか。
「ヘイ、おありがとうございます。あなた様のおかげさまでございます」なんて答える医者の所へは、私だったら信頼して通うことはできない。
「不摂生だからこうなったんですよ! これからは気をつけてください」くらいのことは言ってくれないとね。

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