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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

農業


農業が、奴隷的搾取対象であるとしたのは、マルクス=レーニン主義だっただろうか。
それは、そうした定義によって、産業主義社会を速成に達成しようとする方便だったのだろうか。

私たちが生きるということは、どういうことなのだろうか。
私たちが、自由であるということは。

私たちは、ある基準を与えられた、その中で、私たちの生きるということ、自由であるということを、考えたり、感じたりしているのだろうか。

革命理論は、上と下の方向感覚を必須とする。
レボルーション(revolution)は回転を意味するのであるから、上下あるいは遠近の感覚を元としている。
また、命が革(あらたま)るとは、時間軸での回転・遠近となるだろうか。

マルクス=レーニン主義が革命に基礎を置き、
そのときの下位に位置せられると定義づけられるものを見るとき、
貨幣を中心に動く社会を視野の中心に据えたとき、
貨幣ともっとも隔たった存在であるのが、農業であった。

いや、農業は今でもそうであろう。
が、ことは農業のみにとどまらない。
じつは、産業革命以前に存していたほとんどの「職業」が、
貨幣を中心とする社会(貨幣経済社会)の中での位置づけを持っていなかった。
たとえば、教師、医師、といった「師」のつく生業。

貨幣経済社会の初期において、貨幣を扱わない職業のうち、
もっとも就業人口の多い農業が、「回転」の重心を占めたのは、
人の生活を回転板にピン留めしなければ、回転が成り立たないからだった。

私たちは今、貨幣経済の終末に届きそうなところにいるのかもしれない。
それは、そういった貨幣経済以前から存在する生業が、
貨幣経済の回転板の中にピン留め(ピンナップ)されているからだ。

貨幣とは、価値の数値化であり、数値化とは可視化である。
初期キリスト教徒が「見えないものに目を注ぐ」と記したのは、
数値化の拒否であり、回転板にピンナップされることの拒否なのである。
そう考えれば、数値化(つまり金儲け)が神の意志と同化されるプロテスタンティズムは、
歴史の必然とはいえ、初期キリスト教からは隔たっているといえる。

「合理」とされるものは、じつは回転板にピンナップされているということなのであろう。
上に行ったり、下に行ったりできるものなのであろう。
そうした上下や遠近の感覚が、本来は通用しないものが、ほんとうは私たちの生活や生そのものの周りに満ちている。

「目に見えないものが尊い/真に大切なものは目に見えない」とは、
私たちが容易に納得し、しばしば口にするものである。
しかし、それが何なのかと問われるとき、
私たちはそれを「愛」という言葉に代表されるような、曖昧な意味を指し示す言葉しか、口にできない。
しかしそれは、地上に満ちる空気のように、だれかが独占できるはずもなく、そして目に見えることもなく、砂礫や塵埃のように、そこかしこに見向きもされず充ち満ちているのである。

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TPP

日本経済全体として自由化の利益が損失より大きいことは明らかだが、生産者が損することも明らかだ。つまり貿易自由化は生産者から消費者への所得移転だが、これはゼロサムゲームではない。生産者にB-Eに相当する額を所得補償すれば所得分配にも中立になり、経済の効率は上がる。これがWTOの方針であり、民主党の提案した農業戸別補償のもともとの考え方だ(今は単なるバラマキになってしまったが)。

つまり関税を廃止して所得補償に変えれば、農家の所得を同じに保っても消費者は利益を得る。日本は農業に比較優位はないので、農家が他の産業に転換することで生産性も上がる。ところが内閣府も経産省も輸出増だけを考えているので、メリットが見えない。おそらく反対派のいうように、TPPによって輸入増が輸出増を上回るだろう。それは日本にとっていいことなのだ。

池田信夫blog part2
「TPP参加による消費者の利益は生産者の損失より大きい」 (2011年10月29日 13:43)

消費者になるには、消費行動以外に何の資格もスキルも要らない。
それゆえ、現代社会においては、全ての人間が消費者として位置づけられる。
生産者になるには、スキルを初めとした様々な要件が必要である。
とくに農業においては、生産者のスキルのみならず、「土地のスキル」が必要となる。
消費者の利益を生産者の損失に優先させることは、今後長い時期にわたって「土地のスキル」を放棄することになる。

また、「農家が他の産業に転換することで生産性も上がる」と池田は言うが、それは他の産業に必要なスキルの習得を要請することになる。
人が生きるとはどういうことか。
少ない収益でも、時には損ばかりしていても、生き甲斐を持つことはできる。
損が厭なら転職せよという物言いは、放射能汚染が厭だというのは間違いだという口ぶりと同じだ。

損得でしか人生を語れない時代は終わろうとしているのではないか。
しかしいまだに損得勘定は、私たちの身に染みている。
戦中派が軍隊式を捨てきれないのと同じように。

私たちは私たちが育った(育てられた)語法の中でしか、
物事が考えられず、発言できないのだろうか。

キリスト教とお金

 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、““霊””が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。(使徒言行録8章9~25節)

新約聖書を読むと、初期キリスト教団が金を敵(かたき)にしていた様子がわかるし、魔術(手品)のタネを金で買っていたのであろうことも、わかる。
なにより、お金が力を持っていることが、2000年前と現代とさほど変わらないことに軽い驚きを覚える。
ひょっとしたら、新約聖書に登場してくる多くの病人は、この貨幣経済に否応なく飲み込まれた被害者なのではないかとさえ、思えてくる。

貨幣の起源を探ってみるが、短日では確実なことはわからなかった。
貨幣の起源説のほとんどが、貨幣の機能の説明なのである。
物物交換から貨幣経済へという経済発達史が考えられるが、
物物交換に必要なものは、「等価」という概念である。
何匹かの魚が、何個かのイモと「同じ価値」だと言うとき、その価値とは何によって計られるものなのか。
労働時間? 必要度?
食べ物どうしなら、カロリー? それによって養われる人数や日数?

言語の起源が特定できないのは、なんとなくであれ納得できそうであるが、
言語と貨幣は人間の持つ同じ特性によって発生したのではないか。

つまり、「そのもの」でないのに、「そのもの」であるかのようにふるまう、という特性である。
「そのもの」でないものを使うことで、「そのもの」を使っているような錯覚を覚える。
その錯覚が、私たちに快感をもたらすのではないか。

私は、物物交換は貨幣制度の後に生まれたと考えているが、それはどうでもいい。
何匹かの魚が何個かのイモと交換可能であるということは、魚やイモ「そのもの」の背後に、「そのもの」ではなくて「価値」と呼ばれるなにものかがあるということである。
それは言葉においては「意味」と呼ばれるものと同意である。

「最初に言葉があった。言葉は神であった。」という聖書の文言は、
「言葉」vs「貨幣」といった同じ構造を持つものの対立における、宣言だと読んでよいだろう。
同じ構造、つまり同じ力を持つもののうち、我々は「言葉」を力として認めると。

貨幣の起源、つまり機能、として、権力の象徴というのがある。
いくら個人が貨幣を発行したところで、それはニセ金としてしか認められず、権力から罰せられる。
言葉は、それを発したところで、ひとまずは罰せられることはない。
言葉を発することは権力に属するものではないからだ。

権力は言葉を支配しようとしてきた。
あまり問題にされていないようなのだが、秦の始皇帝がおこなった政策の中に、漢字の統一というのがある。
統一したということは、それまではてんでんばらばらに文字(=言葉)が造られていたということであろう。
表記から始まって、言語現象は為政者の、そして為政者におもねる人々にとって、古今変わらぬ問題なのである。

キリスト教は、「貨幣」と「言語」のうち、「言語」をとった。
言語は現世の権力には決して支配されない。
貨幣は、つきつめれば「物」である。
一円硬貨はアルミニウム、一万円紙幣は紙。
言葉は「音波」であり、紙というものに染みついたインクの「シミ」である。

初期キリスト教団にとって、「言葉」以外に自由にできるものはなかったはずである。
だから彼らが「言葉」を選び取ったのは、無理からぬ流れであったのであろう。
しかしそれは、仕方なくではなく、したたかな実感のもとで選び取ったのであろうと思う。
そして2000年後の世界に住む私たちも、「言葉」vs「貨幣」の同意対立の中で揺れ動かざるを得ないのである。
しかし、その対立の振幅は、私たちが思っているほど広くはないのではないか。
「言葉」と「貨幣」は正反対のものではなく、同じ方角を指し示しているのである。

畠にもならでかなしき

畠にもならでかなしき枯野   与謝蕪村

この前まで建物があった所が、更地になり舗装されてコイン駐車場になっている。
昨日今日の話ではないが、人が、おのれの人生の時間を割き、心をくだいて働くよりも、機械まかせの駐車場の方が銭になるというのだろうか。

芥川龍之介『トロッコ』とニートさんたちのなかで、私は、
> 仕事とは世界(日本的に世間といっても良い)と自分を結びつけるものだ
と述べた。
たしかに、労働は金銭と直截に結びつき、私たちはまさに糊口をしのぐために、働いている。
しかしながら、労働(仕事)と金銭がまったきイコール関係になってしまえば、現今の状況は理想的状況といわねばならない。
労働者は、自らの才能(肉体も含めて)を金銭に置き換えているわけだが、それが論理のすべてなら、今の日本の状況は理想郷でなければならない。

 福田康夫首相は十日、大田弘子経済財政担当相に対し、日本の労働市場で正規雇用の割合を増やすことが必要だとして、実現に向けた具体案を早急に取りまとめるよう指示した。大田経財相は対策について検討に着手した。

 パート、アルバイト、派遣社員、契約社員などの非正規雇用者は、雇用者全体の約三分の一を占めている。非正規雇用者の割合が多いために、日本全体の賃金水準が上がらない面がある。首相はこうした現状を打破するために、大田経財相に対策策定を命じた。

 首相は、企業の賃上げが十分であれば消費が増え、経済全体が拡大するとの問題意識を持っており、既に日本経団連の御手洗冨士夫会長に今春闘で賃上げに努力するよう要請している。

東京新聞 TOKYO Web 2008年3月11日


非正規雇用者=つねに非雇用状態と隣り合わせにいる人たちが、どのように世界(世間)と結びつけられていると言えるのか。
私は一応正規雇用状態で過ごしてきているが、世間と結びついているという感覚が、日に日に薄れていく気がしてならない。
私が相手にしているのは、金銭的状況なのだろうか。

人は、人たちの中に自分が位置づけられていることを確信したときに、自らの意味を見いだす。
それが、たとえ反社会的であろうとも。
しかし、今私たちが直面しているのは、非社会的状況ではなかろうか。

人と人とのつながりの糸が多ければ多いほど、私たちは豊かだと感じる。
切断を前提とした非正規雇用とは、じつは正規雇用者にも同じ状況なのである。
「痛みを分かち合う」ことより、わずかなパンを分かち合うことの方が、私たちに豊かさをもたらす。

「畠にもならで」とはもともとからある荒れ野ではない。
それならばたんなる「枯れ野」である。
わざわざ蕪村がそう言ったということは、耕されることを放棄され廃棄されたことが前提としてあるからだ。

コイン駐車場となったコンビニで働いていたあのお兄ちゃんやお姉ちゃんやおばちゃんたちは、今どこでどうしているのだろう。
人と人とのつながりの糸が多いほど、それは豊かな生活と呼ばれる。
わずかな労賃で人と人とのつながりを維持していたお兄ちゃんやお姉ちゃんやおばちゃんたちは、糸を断ち切られたのだろうか。
少なくとも、一本の糸は断たれたのである。

こうした豊かさから遠ざかっていく今の中に、(正規雇用者も非正規雇用者も)私たちはいるのである。

風を切って走っていくトロッコの中で良平が目にした蜜柑の色も、鼻をくすぐった香りも、暗闇の中に遠く消え去っていこうとしているのである。

オキュパイド・ジャパン〜やはり

クローズアップ現代「忍び寄る穀物高騰〜人と車の争奪戦〜」を見た。

アメリカとは、潜在的にバブルな国なのであろう。
1626年、オランダ西インド会社がマンハッタン島を先住民から24ドル相当で買い取った歴史的事実から、アメリカとアメリカが布衍しようとしてこれまで実施してきた世界と歴史が私たちの前にある。
381年前の24ドルが今の日本円にしていくらなのかは、知らない。
大事なのは、土地をお金で買ったという事実である。
じつにここから、今私の目の前にある世界が展開し始めたのである。

なぜに人間や動物を養うはずの穀物(トウモロコシ)が、車を動かす燃料としての価値と相克せねばならないのか。
「ごく当たり前のこと」が見失われている。
穀物は「人間や動物の食べ物」という原理・原則である。
穀物は「生産者(あるいはそれを動かす者)」に利益をもたらすもの。
もっと原則的に言えば、「物←→お金」の歯車を形成するものとしてのみ、成立させられているのである。
古典的な日本人の感覚から言えば、「トウモロコシで車を動かしてトウモロコシが満足するか?」ということではないか。

地面にお金を払い、それを所持=占有することに根拠を与える。つまり、お金が根拠。
それ以外はない。
それがアメリカの成立条件なのである。
そういう視点からすべてを見てごらん。そうなっているでしょ?

そして同じ番組で映し出された日本の畜産業者の風景〜ケージに閉じこめてウシやニワトリを飼う〜もまた、アメリカ的な風景なのである。
ウシやニワトリに食わせるトーモロコシがあるなら、わしに食わせろというのが、日本人の原風景ではないのか。
それをウシやニワトリに食わせるというのは、「経済原理」のもとで成立している風景だからである。
だから、ウシやニワトリの飼料が、車の燃料の原材料と、喰い合いを始めるのである。

日本人の喰うものが10円や100円値上がりしようが、それはアメリカにとって何の関係もない。

いいではないか。日本人は米と、塩を溶いた汁と、塩をしみ込ませた野菜を喰ってきて、何百年も問題なかったではないか。

改憲議論より先に、食料の国内自給率を上げることの方が、どれほどの優先課題であるか。
それすら日本国民は問題にしない。
戦後間もないときに「ララ物資」としてアメリカから(わずかな)食料が提供された。そのまま今があると思いこんでいるのだろうか。
外国から自らを閉ざしたときに、文化が発展を見せ人口が増えたという歴史的事実を、いったい誰がどのような責任においてなさねばならないのか。明らかではないか。
なりふり構わず泥まみれになることを美徳としてきたのが、日本の歴史ではないのか。
「美しい国」とは、修辞としてではなく、まさに泥まみれで己が命を養ってきた歴史に対してのみ有効な言辞であるはずだ。

自民党はもう一度、農林水産業従事者に基盤を置く覚悟があるのだろうか。(いや、ないはずだ。(反語))

『下流志向』

内田樹『下流志向』。2週間ほど前に読了したのだが、なるほど、着地点はそこか。

2001年10月6日および2004年10月13日から18日にかけて、不定期日記(web版)で私は消費社会について論考しようとした。
そこで私が考えたことは次のようなことであった。

・「貨幣経済」は、「物」と「貨幣」が逆方向に移動することと言える。
・景気とはその移動の量と速度による。
(以上01年10月6日)
・私(たち)は、お金と物を交換することが好きなのではないか。
・そうした(お金と物を交換することが好きな)社会のモラルとは、お金と物の交換を阻害しないことにつきるのではないか。
・そのことをモラルの原点に据えれば、年齢による差異も、性別による差異も、そしてじつは貧富の差異(「貧富の差」ではない)も、なくなる。
その先に、情報化社会があり、情報化社会とは、情報がお金や物と同じあつかわれ方をする社会のことではないか。
・第1次・第2次産業従事者が人口の半数を割ったとき、それらの生産の場が、半数以上の人々の視野から霞んでいき、第1次・第2次産業を基盤としたモラル上では、ほとんど理解不能な状況になった。つまり、交換されるものが、生産上・消費上(=生命維持上)価値のあるものであるかどうかは、問題とされない。
・価値の有無を問わず、交換されることだけが、唯一の問題なのであり交換されることに価値が生じている。
・その交換においては、等価であるかどうかすら問題ではない。
・有り体に言えば、生産<->消費という体系の中に求められる価値ではない。
・生産の場が視野から外れていったとき、日本におとずれたのが「バブル経済」であり、「バブル経済」で経験したことは、物が動くことが経済だという理解である。
・「消費者」という位置づけは不思議だ。すべての人間が生産者ではないが、すべての人間が消費者なのだ。
・「消費者」とは、差別のない世界であり、消費する者のどのような属性にも拠ることなく、「消費者」と呼ばれる。
・法の下の平等と言うが、今は消費に基づいた平等である。では、消費の多寡による差別はあるのか。それはないのではないかという思いと、あるような気がするという予感のあいだにいる。
・「消費すること」を実行することが「消費者」の資格であり、それが1円であろうが、1000万円であろうが、本質的には変わらない状況にあるのではないか。
(以上04年10月13日〜18日)

自分の実感からだけにしては結構いい線行っていたようにも思うが、やはり資料の裏付けと、論考を進めていく根気に欠けていた。
そして何より、どこに着地すれば良かったのか、あまりにも漠然と、世相を描こうとしていた。

その点内田はさすが武闘家である。
相手を倒すことを目的においても、決してそれを目標にはしない。
目標にするのは、たとえば「体をかわす」とか「眉間を打つ」といった個別の目標なのである。
個別の目標のない目的は、じつは目的とは呼べないものなのである。
つまり04年の私は目標も目的も持たずに、考えるふりをしていただけなのだが、こうして内田先生に我が蒙を啓いてもらって、くやしいやらうれしいやら。

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