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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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恋し

こひ破(や)れし畠(はた)の上なる男かな
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反省の九月

いっきょに夏の反動がやってきた九月だった。
それは夏ばて。と
彼らは呼ぶけれど。
十四日の夜に酒を飲んでいると、とつぜん
それはやってきた。

それからは
私はつきあい方を忘れた
夏の落とし物が届けられ、
呼び出され。
砂浜のコカ・コーラのかけらで、踵を
切った(暗喩)。

波を見ることも、雲を見ることも、私は九月ではなかった。
十月の河口では、沙魚釣りの男たちが影
になって
しなやかに竿を
振りつづける。鳥の影

部屋を覆われて、残り者の
生活を送る。
私はつきあい方、
砂浜のコカ・コーラ、
風邪と、
ガラスコップにうつった鳥の口に。
十月は残っているのだけれど

へなちょこ

  秋の蚊を握りて詠める
はらすちて かもにすがれる よすげ哉
snap_florva_200894215752.jpg

思想

8月は前半たいへんで、何かを考えたりできなかった。

思想とは何か。
この命題で思いつくのが、共産主義思想の凋落である。
しかしながら、思想とは主義のことなのだろうか。
共産主義も自由主義もじつは経済に対するひとつの立場であれば、それが正しいか正しくないかは、人々の経済活動の実際に適合するかしないかということの言い換えになるだろう。
じっさい、ソビエト共産主義は経済の行き詰まりによって崩壊し、中国共産主義は資本主義経済に修正しつつある。

今、人々が拠って立つ思想というものがあるのか。
多くの人々が自らの考えや感想や反応といったものを、発信する機会を手に入れた今、思想というものが人々の準拠するに足るものとして成立しうるのか。
あるいは、そうした自らの考えを発信していると考えている人々を、さらに大きく包み込んでいるものが思想であると、私たちは考えることができるのか。
つまり「無思想の思想」といったものが、成立するのか。

8月の終わりに、問題提起だけを、取り敢えずしておく。
この項、つづく。

へなちょこ 再び

色薄し 花にすかしく 蝉の声

snap_florva_20087291323.jpg

バルトーク 中国の不思議な役人

またしてもひと月以上空いてしまった。
忙しかったのかというと、忙しかった。
ふだんの1.5倍だけ忙しかった。
それだけで何かを考えたり、言葉にすることがおっくうになる。
体力がついていかない。
なんだか寂しいが、これが2倍の仕事量になったら、仕事すらできなくなる。

さて、仕事とは別の話。
今、バルトークの「中国の不思議な役人」をやっている。
各所に「春の祭典」を意識したような響きが聞こえるのだが、スコアは「春の祭典」より単純に見える。
もちろんそれは、細かい音符での変拍子が、楽譜上少なく見えるというだけだが。
しかし、バルトークの音楽は楽譜を音にするだけではなかなかできあがらない。
いやそんなことは、どの、だれの、曲でも一緒なのだが、
バルトークの場合、スコアの遥か上に特殊な倍音が響いているような気がしてならない。
スコアリーディングだけでは、読み取ることのできない、不思議な音響が、あるいはそれは気分と言ってもいいものかもしれない、ただよっている。

それがバルトークの難しさ、演奏も聴取も、なのだろうか。

バルトークは夜の音がよく聞こえたという。
遠くの森でなく獣の声や、数十分後に訪ねてくる友人の足音を、確実に聞き取ったという。
バルトークの音楽を覆い、ただよう不思議な音響、倍音が、そんなこともあろうと信じる気にさせる。

そういった音響、倍音が出せる演奏に仕上げたい。

スコットランドのおっさん

今日は職場の飲み会。
「バスク」で美味しい飲み会。

二次会は近くのANAクラウンプラザホテル広島1Fのラウンジで、オールドパーのショットを2杯。
終わって出入り口横の喫煙所に行くと、おっさんが煙草を吸っていた。
話しかけると、スコットランドから来たと言う。
けっこう訛りがきつい。
というか、酔っぱらっている。
それは自分も同じこと。

日本アルプスに行ったが、日本にこんな高い山があるとは知らなかった。
スコットランドの山にはたいてい木が生えている。
弾丸列車(新幹線)はとても速かった。
(京都、大阪、から?)
大阪から。
(2時間、1時間半くらいかな。)
うーん、2時間かな。
(私は学校の先生をしている。)
木造の建築物を造っている。
スコットランドには二百から三百のスコッチウイスキーの醸造所がある。
(それは日本酒もいっしょだ。)
(宮島は行ったか。)
明日行く。
(きれいな神社が海の上に浮かんでいる。)

なんてな話をした。
訛りがきついのか、酔っぱらっているのか、その両方なのか、
こんなおっさん、どこにもいるよな。
酔って機嫌良く、少々ろれつが怪しくなって。
別れ際には、胸のポケットからよれた煙草を取り出して、
は〜もう一本吸うけんね〜。

この日、ラウンジには外国人が多かった。
石見銀山が世界遺産に登録されてから、海外からの観光客が増えているらしいが、
ラウンジではフランス語も聞こえた。

スコットランドから来たおっさんは、宮島を見て、
スコットランドに帰って、木造建築を造っていくのだろうな。
私は私で、仕事を続ける。
でへでへの表情が、親しみを覚えさせるおっさんだった。
お互い、がんばろうな!

石見の山をゆきて

うぐいすの してもやったり 皐月晴れ

五月のシェーンベルク

ゴールデンウィークも終わり、いつもの日々が戻ってきたが、植物の緑はいよいよ青さを増していく。
気温は二十五度前後まで上がるが、湿度が低いため風が気持ちよい。

そんな昼下がり、シェーンベルクの組曲作品第二十九番を聴きながら、まどろむ。

シェーンベルクの作品は、二十世紀初頭の奇形な音楽としてとらえられがちであるが、まどろむ耳と頭には爽やかな五月の風と何ら違和感なく感じられる。

シェーンベルクは、その経歴とはべつに、音と音の関係を音楽にしたのだと、私は思う。
それは、風が木の葉をかすめ、さまざまな向きに生えている木の葉が、さまざまな音を奏でることと、ほとんど同位置にあるのではないか。

シェーンベルクの講義を聞いたケージが、偶然の音楽に向かったのも、必然であったのである。

私たちは、さまざまな自然現象にも、意味を付与しようとする。
それが、「単なる音」であってもだ。

シェーンベルクは12音技法を編み出したとき、ドイツ音楽の優位が100年保証されると言ったという。
それは、表現としての音楽ではなく、音の法則としての音楽であったはずだ。
それに奇形としての意味を付与しているのは、その音を聴いている私たちなのである。

母が死に桜が咲いて三年目

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