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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

具体的なことは書きたくないが

コロナが蔓延している中で、オリンピックを止める気はないか?

GOTOトラベルでコロナ拡大の事実はある。〈したがって、間もなく取り止めた〉
オリンピックは「バブル方式」でおこなった。
オリンピックとコロナの拡大の間には、確たる因果関係はない。

オリンピックを止めろと言ったのに、聞いてくれなかった。
国民の行動は抑制して、政府はしたいことをした。
だから政府の言うことは聞く必要はない《ききたくない》
自分たちの言うことを聞かない政府は不要である。

ここにあるのは、コロナとオリンピックの因果関係ではなく、欲望の自由と、抑制の関係である。
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自分たちの望みを叶えない政府を交換する権利は、民主国家の国民にはある。

コロナとオリンピックの間には、欲望の自由と抑制の関係が直接成り立っていないはずだ(落ち着いて考えれば)が、
野党とマスコミは、巧妙に国民の抑鬱感情をくすぶらせ、焚きつけた。
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コロナはコロナ、オリンピックはオリンピック、であるところを、長期間にわたる抑鬱感情を利用したのが、野党マスコミである。

国民に感情的になるなとは、思わない。むしろそれでよいと思う。
感情のリードを握る者が、国民を向いているのか、冷静に考える者がいてよい。
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じつは、オリンピックは成功だった。
反対勢力があせっているのが、その何よりの証拠だ。
あせっているから、ますます活動は活発になってくる。

国会での議論が、○か×かで、考えを摺り合わせさらなる考えを生み出すようにしていない。
国民のためというフレーズは使うが、国民を考えてのことではないことが、よくわかる。
国民をだしに使っているだけである。
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パラリンピックでも同じことが繰り返される。
仏でさえ3度。
ミスリードされた国民感情は、あのとき開戦を望んだ時のように、なる。
その先は、75年前に経験している。
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焼き鳥の串

焼き鳥の串をめぐる論争がSNS上でかまびすしいそうだが、ネット評論家がこの論争の白黒を探ろうとしていたりするが、どうでもいいというのが本音のところ。
焼き鳥の串とは、調理するために必要なのか、食べるために必要なのか、味に影響を与えているのか。
まさか串もいっしょに食べろというわけではないのだから、食べる前に外すので、それが口元なのか皿の上なのか。口で外すのか、箸で外すのか。
せっかく丹精込めて串に刺したのだから、皿の上でばらばらにしてくれるなというのが調理したがわの意見で、皿の上で串から外した方がみんなが取り分けやすくてよいというのが食べる側の論理。
せっかく吟味した革で丹精して作ったカバンだから、そんな汚れたものは入れてくれるな。何を入れても使う側の勝手じゃないか。
作り手と使う側の論理のすれ違いはいつもつきまとう。

今回の議論で面白いと思うのは、議論の正当な決着をつけようとしているところだろう。
美味しんぼのように、わさびを醤油に溶くのは正しいのか正しくないのか。
答を伝統に求めれば、醤油を使うこと自体が正しくないことになるし、わさび自体を大切にするのか、食べやすさや好みを大事にするのかと、議論はとどまらないだろう。

今回の議論で面白いのは、マナーづけの方向がちらついていることだ。
オレはそれはいやだ、こうした方が合理的だと、床屋談義の域を出ないものが、ネットによってより広範囲なマナーとなっていくのかどうか、おもしろい。

傷(きず)

人は自分がしたのと同じ方法によって傷つけられるが、
自分が傷つけられたのと同じ方法によって人を傷つけるのだろうか。

風評・・・福島

「美味しんぼ」の福島の件だが、
風評だ、真実だ、という議論にもなっていない喧噪に、
やがて人格批評に落ち着くという、お決まりのコースをたどったように思う。

広島も長崎も、69年前「風評」にさらされたわけだが、
入市被爆といわれる被害のことを考えると、
首相も風評と言い、断定的な物言いをする学者の言を聞くと、
健康な若者が、放射能障害で亡くなり、年寄りが無事であったりしたことを、
何ととらえればよいのか。

事故当時の枝野の「直ちに健康に影響があるわけではない」という言葉が、
たんにパニックを防ぐだけの言い逃れであったことを思うと、
福島の放射能障害を風評と言うのは、政治的判断であると考えるのがよいと思う。

被爆2世として生まれた私が、健康に不安を感じるとき、
それが原爆のせいであるのかないのか、
断定的にイエスともノートも言えない不安がぬぐい去れない。

広島も長崎も、健康被害は「確率的」に生じたのである。
たまたま「くじに当たった」者を見ぬふりをして、「風評」と断じても、
福島、広島、長崎で生きる者たちに、決定的な安心はもたらさない。

哲学

哲学とは、私たち人間がとらえうる限りの世界を、私たち人間の言葉に置き換えようとする行為のことだろう。

とすれば、科学も数学も、文学も芸術、音楽も、私たち人間がとらえうる限りの世界を、私たち人間の言葉に置き換えようとする行為のことだろう。

私たちが世界をとらえようとするとき、言葉に置き換えられないものは、とらえられない。

聖職、サービス、サクリファイス、

体罰→自殺 事件で、教育/子育て論議が盛んであるが、
育てられる側の論議にはいっこうにならない。
それはそうで、育てる方の満足のみで、教育論は成立しているからだし、
それはつまり、どのような人間が必要かというのは、圧倒的年長者たちの立場でしか議論できないからだ。

教育、子育てというのは、枠にはめることであり、
たとえ可能性をのばすといっても、その可能性は『今』の価値観に合目的性がなければ
それは可能性とは呼ばれない。

教育の目的とはなにか。
多くの人間にとって、それは、自分にとって満足である~気にさわらない・範囲の人間になってくれることなのではないか。

体罰だけでなく、教育の過程が気に入らなければ、裁判になってもよい。
しかし、それは、教育の本質的議論にはならない。

いよいよ、「教育=サービス」の価値観の中に入り込んでいく。
「教育=サービス」論を支えるのは、価値観の普遍性である。
価値観の変化が余儀なくされたときに、
「教育=サービス」の価値観が否定されたときに、
私たちは高価値である観念に添うような教育を求めるのであろうか。

人類普遍の価値というものはない。
そういう価値観に、私たちは到達した。
しかし、人類普遍の価値が、それでも残存しているとしたら、
それは、生きている、という現実を延長する意志のことではないか。

宗教や、大東亜戦争末期の特攻や、イスラムのジーハードのように、
死の向こうに生の延長を実現しようとする価値観も存在する。

これから生きていく者がこれから持つであろう価値観ではなく、
すでに生きてきた者が予測する、過去の延長である未来の予測上の価値観を
与え続けることが、教育なのであろう。

とすれば、予測が過去の蓄積の上だけに成り立っているのなら、
予測が外れることを予測した「ゆるさ」がある方が、
予測自体の精度は高まる。

そう考えると、教育の本質は、子守、あるいは、押しつけ、の両極の間をぶらぶらしている不定形であるのが
その本来的姿なのかもしれない。
孔子は、渇かぬ馬に水は飲ませられないといったが、
同じ未来予測を持たない年少者に、年長者は何を与えられるだろうか。
井戸の掘り方?
水の貴重さ?
今すでにのどが癒され続けている者に、切実さを持って与えることができないなら、
同時代的要請に従って強要することしか、
「教育=サービス」論的世界での教師の「お仕事」はないであろう。

「教育=聖職」とは声高に言われなくなって久しいが、
「聖職」とは、誰にでもなる資格があり、必ず誰かしなければならない仕事を、
誰かが受け持っているということであり、
それはサクリファイスの思想であり、
それだからこそ「聖別」されているのである。

かつて、教職が尊敬されていた時代は、冷静に考えれば、ないことは明らかである。
そういった時代は、あこがれが作り上げた過去の虚像である。
(「師の恩」が富裕より清貧に基づいていることを思い出せばよい)
サクリファイスが、サクリファイスであることを根拠に、
清浄や高潔を強要され、
またそうであることを自らに強要することで、サクリファイスであることを意味づけようとしてきたである。

サクリファイスは「聖」であり、それ故放埒が許され、またその反面賤視されてきたのである。
「教育=サービス」の価値観と同居できる価値観であるのかどうか。

たぶん同居できないであろう。
「教育」は常に、家庭から離れたところで行われてきた。
「家庭」教育と、ことさらに言わねばならないことが、それを示している。
教育は常に、家庭にすり寄りながら、家庭を裏切ってきた。

日本国憲法第9条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


日本国憲法第9条の改定論議が囂しいが、2012年末の衆議院議員選挙の際、池上彰の安倍晋三に対する「戦争もする、交戦規定もあるということは、国防軍の兵士に死者が出ることもある。そういうことを命令するお立場になるということでよろしいんですか?」という質問に、阿倍は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓」うという自衛官の宣誓文をもって答えるにとどめた。

国民の立場から国軍を持つことの議論はあるが、文民統制を貫くならば、国軍に命令を下すのは(国民ではなく)国家元首ということになる。
国軍に命令を下す状況というのは火急の場合であり、戦略的に考えても、国民投票を待つことはできないであろう。
つまり国民の(選挙によって選ばれた)代表である内閣総理大臣に判断と決断をゆだねることになる。
文民統制とはそういうことである。

池上の質問の本質は、
1.国軍に交戦を命令すると、兵士に死者が出ることもある。
2.国軍に(死者が出ることもある)命令を下す人物がいる。
の2点に要約される。
そして内閣総理大臣はこの2点に耐えることのできる人物であるべきではないのか、ということを含めて3つの点を視聴者に暗示していたのではないか。
政権争いどころの話ではないのである。国民生活のレベルでいえば、殺人教唆、自死教唆である。
それを指示・支持できるだけのタフさを、国家元首と国民は持ち得るのか。
と問うていたのではないか。

憲法は、国民から国家主権に対する制限という意味を持つ。
国権の発動たる戦争」とか「国際紛争を解決する手段」とか「国の交戦権」という文言がそのことを表している。
憲法を改定するという作業は、そういう覚悟を持つということである。

第9条に関して吉本隆明がおもしろいことを言っていたことを思い出した。
他国が攻め込んできたら、国民一人一人が何でもいいから武器を持って戦えばいい、憲法の規定は国、国家主権に対する規制なのだから、国民一人一人の交戦権は否定していない。
というのがその大意である。

外国軍が攻め込んできて、家族やあるいは隣人が助けを求めれば、助けることは私はやぶさかではない。
自分も家族や隣人に助けを求めることもあるだろう。
その延長線上に、国軍を持つことがあるのだろうか。
この延長線はあまりに長い気がする。
我々の真意とは違うところで、国家主権が軍事力を発動することがあり、その力が国民に向けられることもあるということは、日本国は経験済みであろう。
いや、それは日本だけではなく、交戦を経験したどの国も、経験済みのことであろう。
その意味で、国軍に対する規制規定を憲法は持たなければならない。

***してよい、という規定は近代法制にはあり得ない。


全機械化ってオートメーション

キャノンがデジカメの生産過程を全機械化するとの報道が、今朝あった。
機械化によって、人間の生活が楽になるというのは、嘘。
産業革命によってできあがった今の社会が抱えているのは、
生産手段を持っている者がいちばん得をするという構造。
働かなくても機械が代わりに働いてくれるというのは、機械を持っている者だけ。

私たち人間は、働きたいのである、はずだ。

お金はコミュニケーションの手段であるので、
働く機会を与えられずにお金がない者は、会話さえできない。

考えてごらん。
PCやスマホを持っていない者は、コミュニケーション手段がないと見なされているのが、今ではないか?

でもね、コミュニケーションって何?
おまえは仲間だよって、言うこと。
じゃないのかな?

今の日本は、働く機会の有無を自己責任ということにして、コミュニケーションをブレイクダウンしている。
でもね、本当のコミュニケーションは、
たとえばこの私のようにブログに書き込むことだけではなく、
いやPCがなければなされないような脆弱なものではなく、
たとえば、息づかいを交換しあうような、そんなところで成り立っている。

それは確実に、毎日、いたるところで。
お金にもよらず、
たとえばまなざしの交換というようなもので、すべての街角で、あぜ道で、
森や林の中で、波頭を渡る小舟どうしの上で、交差点ですれ違う車の運転席で、
ジャングルの中で交わされる、カタツムリとジャガーとのすれ違いのように、
なされているのが、私たちのコミュニケーション。

まなざしは消え、音声は去り、皮膚感覚は記憶に化石するが、
お金は・文字は・私たちの子どもは・残る。
それだけが私たちのコミュニケーションの実態ではないでしょう。

コミュニケーションが残し、いつまでも消えないものは、時間の二乗に反比例して減衰する音声であり、
大脳皮質がよみがえらせる手触りであり、
間脳が意識のないところで発生させるまなざしへの反応でありましょう?

コミュニケーション能力とは、お金を発生させる能力ではなく。
お金なんて、どうせ天下の回りもの、一つ財布の中身を家族がどう使うかだけのもの。
コミュニケーション能力とは、私がここにこうしていて、あなたがそこにそうしていることを、
交換しあう能力のこと。
ことばも、お金も、愛情も、コミュニケーションを保証するものではない。
あなたがそこにいて、私がここにいることを、交換しあうこと。
そのための手段(メディア)は、無数にある。

また明日会おう。
明後日も会おう。
たぶん、百年後も、千年後も、私とあなたは、会うはずだ。

安全宣言

なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか。
「安全宣言」とは、切り捨ての口実だということ。

「安全宣言」したから食べても大丈夫です。
それでも食べないのは「風評」被害のせいです。
食べない人が悪いのです。

・・・・
補償も何もあったものじゃない。

私は食べません。
でも作った人たちの生活を保障する手立ては、ないのか?

流出ビデオ

今夜のNHKニュース9で、ビデオ流出事件に関しての報道で、問題のビデオ(の一部)を放映していた。(民法は、それ以前からも)
これって、いいのか?
国家機密法違反の証拠物件を、流していいのか?

流していいという、お上の意向が、庶民の頭上を通り越して、メディアに指示されているのか?
そうでないとすれば、政府がなめられているのか?

流出されるまでは機密であったビデオが、こうまで簡単に流されている。
「機密」の意味ってなんなんだ?
ビデオを流出させたことが罪なら、それを公然とマスメディアが流すことを許すって、なんなんだ?

なにかがおかしい。
米軍に出ていってもらう代わりに。・・・・?

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