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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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世襲

北朝鮮の政権移譲問題について、
世襲制は異常だという論調が目立つようだが、
天皇は世襲である。
世襲でなければならない。

下下のことは、知らん。
自分の職業は世襲ではない。
天皇は職業ではない。
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延引された夢

「道具」は私たちに夢を見させる。
たとえば、車を持てば、F1レーサーにでもなったつもりになることができる。

PCを持てば?

PCの、特にコミュニケーション機能に限ってみれば、
それは言葉に、あるいは言葉のみに、依拠している。

PCを持てば、私たちは、言葉を綴る人間、作家にでもなったつもりになることができる。
できる、は、それを容易に通り越す。
キーボドを打つだけで、私たちは作家になっている。
しかしそれは、PC以前の作家とは、多く違っているはずだ。
それでも私たちは、言葉によって我が身を紡ぐ人たちと、それほど違わない所にいるという夢をみている。

それほどPCの機能が、私たちの願望に沿っているということだろう。

私たちは「作家」ではない。
だから「作家」ほどに、言葉の持つ力(攻撃性)に自覚的でない。

夢とは、私たちに無自覚であることを強いる装置である。
そしてそれは、私たちに快楽の中にいることを強いる装置でもある。

その快楽や無自覚が、自分ではないもの、によってもたらされていることに無自覚であることを、
私たちは知っているのだろうか?

夢がいつまでも夢であることを、私たちは望む。
それが夢であることを、私たちはいつでも知っているのに。

大人ということ

電車やバスで大人料金を払うようになったら、
それなりの振る舞いをしなきゃあな。
そういうことだ。

少年−犯罪〜しつけ(2)

「しつけ」というとかなり強制が強いニュアンスがあるが、「教える」と言ったらどうなるか。
白川静は「字統」で次のように述べている。
「教」
メ父(こう)は屋上に千木のある建物の象形。古代のメンズハウスとして、神聖な形式を持つ建物で、ここに一定年齢の子弟を集めて、秘密結社的な生活と教育とを行った。指導者は氏族の長老たちで、氏族の伝統や生活の規範を教える。ト又(ぼく)は長老たちの権威を示す。

「長老」というから老人のイメージだが、「年上の主立った者」と解釈すればよい。

ネットで少年法の限度/抜け穴を教えるから悪いという議論もあるが、「掟」のある社会ではそうしたものである。
年長者が「掟」の抜け穴を教え、ちょっとばかりの悪(わる)を教え、しかしその結末も教える。
抜け穴のない掟は、その掟を持つ集団を、結果的に滅ぼしてしまう。
その掟に従わないものは、その集団の一員ではないというのが、掟のそもそものもつ不可避的要素だからである。
後期小泉自民党総裁のなしたことをみればそれはじゅうぶんにわかるだろう。
抜け道の持つ本来の効用を知っている者を、「おとな」と呼んだのである。

ネット社会では、実はそうした「抜け道を教える年長者」が存在していないのである。
ネット社会に存在しているのは、「ネット社会でのガキ」ばかりである。
だからこそ「ネチケット」の必要性が唱えられたりしているのであるが、そうした未成熟な「ムラ社会」がいっきょに何万人単位で、歴史的なスケールで見れば「瞬時」にして成立したのである。
「長老」の不在。
むしろ現社会での「長老」の否定が、そこではなされてきたのである。
「子供」を集団の新たな構成員と見なすことが、されていないのである。
たかだか十数年でなされるはずもない。
言ってみればネット社会の「年上の主立った者」ですら、十数歳の年齢なのである。
「ガキ」が「ガキ」の面倒なんて見られるはずはない。
それが実社会とクロスしたときに、私たちはパソコンの画面をとおして、混乱しているのである。
そして、後期小泉自民党総裁のなしたことが、何の違和感もなく理解されたのである。

少年−犯罪〜しつけ

私たちは子供を叱ったり諭したりするときによく、「お前のことを考えて」、とくに「お前の将来のことを考えて」と言う。
考えてみればしつけのほとんどが、子供の将来のことを考えて行うものだ。
トイレのしつけから始まって、食事の仕方、服の着方、礼儀作法や口のきき方、数え上げればきりがない。
では、子ども達を待ち受けている「将来」とはどういう「将来」かというと、今大人たちが生きている世間とほとんど変わらない将来なのではないだろうか。
環境の激変に対応した生活の仕方を、私たちは教えることがあるかもしれないが、それを「しつけ」とは呼ばない。
今大人たちが生きている世間とほとんど変わらない将来が子ども達を待ち受けているということは、言い換えれば、今大人たちが生きている世間に将来子ども達が参加してくるということである。
つまりしつけとは、今大人たちが生きている世間の「集団儀礼」を教えることなのである。

大人たちが子ども達に教えることというのは、じつはほとんどすべてが、そうした「集団儀礼」なのではないか。
しじゅう裸で駆け回り、所かまわず糞尿をまき散らされては、私たちが困るのである。
本来は我々大人が困るのを、「将来お前が困らないように」と言ってしつけるのである。
「教育」、とくに初等教育、中等教育も本質は同じであろう。
こんな公式習って何の役に立つのか、文法を知らなくても読み書きはできる、といった生徒の悪態に対して、大人は言い訳以外の真実有効な答えは持っていない。
ここでも、将来困るのは大人の側なのである。
公式や文法はともかく、きちんとした読み書きや、簡単な計算能力、ものの判別力がない者が、「私たち」の集団に多く参加してくると、もはやその集団を維持することも困難になってしまうだろう。という予測を私たちは立てているのである。
私たちが子ども達をしつけたり教えたりするのは、私たち大人の集団のあるべき姿を、彼らに求めているのである。
つまり、子供に何を求めるかということは、私たちが私たちに何を求めているかということと同一なのである。

その一方で、「私たちの集団」に将来も新しいメンバーが付け加わることも、私たちは望んでいる(はずだ)。
メンバーが高齢化して新たな若者も期待できない、過疎地の青年団(といっては失礼か)のような集団を、正常な集団社会とはいわないだろう。

そうしたときに、いったいどういう集団が集団としてよりよい集団なのか。

集団のよさとは、集団の統一性と継続性とを同時に満たすところに求められる。
統一性を求める余り、集団の構成員が閉鎖的になり、将来的に目減りしてはよい集団とは言えないだろう。
逆に集団の構成要素があまりにゆるすぎると、それは集団とは言えない。
そのバランスをどこに求めるのがいいのか。
少しばかりゆるい方がいいのではと、私は思う。
集団の構成要素が徐々に変更されていくくらいのゆるさが。
集団の構成員が目減りすることなく、できれば少しずつでも増加するくらいのゆるさが。
それがよりよい集団と言えないか。

少年法改正議論に見える厳罰化は、そうした集団のよりよいあり方への方向性に逆行している心性があるようにも思えるのである。

少年−犯罪〜「大人」/「子供」

私自身は「大人」なのであるのか。そしてそれはどういう根拠にもとづいているのか。

先に私は、
> 江戸時代であれば、十歳に満たずに元服式を行い家督を継ぐ者がいる一方で、三十を過ぎても前髪も剃らず(剃れず)に部屋住みの悲哀を託つ者もいたのに。
と述べたが、それは武士の話であって、それ以外の階層ではどうだったのか。
「町人」であれば、3〜5歳で奉公に上がり、お仕着せを頂いて丁稚から手代、番頭へと、いったいどの段階で「大人」と認識されたのか。
農民であれば・・・・? 職人であれば・・・・?
古語では「思慮分別のある年長者らしい。主だっている。」というのが、主な用法である。

私は「大人」に対して、そうはならない努力目標としてとらえていた。
つまり「ああいう大人にはなるまい」、あるいは「ああいう大人になるくらいなら、大人にならない方がましだ」。
もう30年近く昔のことだ。
しかし今私は自分が「大人」か「子供」かというと、(たぶん)「大人」だ(ろう)と規定する。
それは、自分より「子供」である存在のほうが多くなったからだという気がする。
「大人」/「子供」の規定とは、そうしたものなのだろうか?

私がこの項について気が重いのは、たぶん次のような理由による。
つまり、答えは明らかなのに、答えにいたる道筋が見出せない、ということ。

その答えとは、
「大人とは、社会に対して責任を負い/負わされ、その責任を果たそうとする者」であり、その「責任」の中には「子供に対する責任/子供を善導する責任」も当然のように含まれている。
ということである。

このことはどの時代でも、どの地域でも共通したことであると思う。
つまり「子供の不行跡は大人の責任」であり、その責任において「大人」は「子供」を罰しうるのである。
何をもって「大人」であるとし、「子供」であるとするかはさておいて、
「大人」と「子供」という区別のある世界において、「大人」は「子供」に対して責任を負い、反対に「子供」は「大人」に対して無責任であるが義務を負う、のではないか。
そして、それはとりもなおさず「大人」と「子供」の定義になっているのでないだろうか。

「大人」が「子供」に対して責任を負うというのは、「子供」の犯罪のすべてが「大人」の責任であるということとはちがう。
しかし「子供」を「育てた」という責任は「大人」にしかない。
その責任において「大人」は「子供」を罰するのである。
もちろんこのことが「子供」に対する罰がつねに軽くなければならないことにはならない。
「大人」の手に負えない「子供」は、「追放」されることもあり得る。

しかしこの道筋が、今、どのように存在し、たどることができるのか、私には見えないのである。
このことが(たぶん)私の気を重くしている最大の要因であるように思える。

「子供」とは、自分のDNAを引き継いだ者、つまり自分の性行為の結果生まれた存在だけをいうのではなく、社会的存在としての「子供」も含まれることはいうまでもないだろう。
子供が親の手に負えないことをしでかしたとき、親はどうすればよいのか。
親子の縁を切った(つまり勘当)上で、迷惑をこうむった人々に謝ってまわるか、もはや勘当したからと責任をチャラにするか。
いずれにせよ、それが「大人」の行動であったのではないか。

こう考えたとき、少年法の改正(やその議論)がどれほど「大人」の「腹のくくり方」に基づくのか、私にはうまく見えない。
犯罪を犯したとき、その犯罪の程度に応じて罰されなければならない。それは当たり前のことである。犯罪を犯した者が「子供」であってもだ。
そして罰するのはいつでも「大人」であるし、「大人」でなければならない。
しかし、その「大人」がどれくらい腹をくくっているか、私には見えてこない。
それが、私に不透明感を与え、私の気を重くしているような気がするのである。

この項、また考えがまとまれば、つづける。

少年−犯罪

先日の日記にコメントが寄せられたので、「少年法改正」問題について自分なりの考えを表明せねばならないだろう。
犯罪=共同体に対する何らかのマイナス要因=罪を犯した者が、自らそれを償う必要性については私は何らの異議はない。
しかし、この問題を考える上で、自分の考え/感想を不透明にしてしまっているいくつかの問題がある。
それを自ら明らかにすることから、論考を進めたい。

少年法」に定められるところによれば、少年とは「20歳に満たない者をいい、『成人』とは、満20歳以上の者」である。(少年法第2条)
さらに少年法内でも、年齢に応じてその取り扱いに差が設けられている。
では、その年齢の基準が何によって設けられたのか、もはや私たちには明らかでないのである。
つまり「成人/少年」の区別、有り体に言えば「大人」であることの証が、はたして年齢でなされるのか。

大学まで親元で過ごし、毎月小遣いをもらい、三度の食事も作ってもらっていた私と、中卒で中華料理店に就職したサド君と、小学校の同級生とは言え、どちらが「大人」であったのか。

「大人/子供」の区別は、「儀礼」の問題であるのは、明らかであろう。
とすれば、相応の犯罪を犯した者は、その犯罪の度合いに応じて「大人」であると認定されるということなのか。

ここには、「大人」であることの根拠が年齢によってしか与えられていないことのジレンマがあるのではないか。

たとえば「ニート」の問題。
自ら稼ぐことなく家庭も作らず寄食し社会的責務を果たさない存在が、年齢によって「大人」として扱われること等と裏表の関係がある。

たしか内田樹も言及していたように覚えているが、酒・煙草といった大人の儀礼に関わっていたものが、身体的影響という観点でのみ語られるにいたると、大人/子供の差違はなくなってくる。
子供の体に悪いものは、大なり小なり大人の体にも悪いのである。
悪いものは排除されてしかるべきである。
という論法が違和感なく成立する。
以前『下流志向』の項で論考したように、消費社会の進行によって大人と子供の差別がなくなったことが一因であるのかもしれない。
大人が「大人」である根拠を失って焦っていると言えるのかもしれない。

たしかに「大人」がするような犯罪/「大人」でもしないような犯罪を「子供」が犯したとすれば、それは「大人」の犯罪だというしかない。
犯罪によって「大人」であることが承認されるのである。
だとすれば、年齢ではなく、「犯罪という儀礼」によって「大人」として処罰されなければならないということになる。

では私たちは、いったい何によって「大人」であると自ら承認し、他人から承認されているのであろうか。
まさか「少年法」第2条の規定によってではないだろう。
しかしその根拠があいまいになっている/見つけられないのが、今ではないだろうか。

江戸時代であれば、十歳に満たずに元服式を行い家督を継ぐ者がいる一方で、三十を過ぎても前髪も剃らず(剃れず)に部屋住みの悲哀を託つ者もいたのに。
やはり今は、「犯罪という儀礼」によって「大人」であることが承認される時代なのだろうか。
そしてそのことは、「大人」であることが承認されることによって社会から排除されることにほかならず、それはとりもなおさず「大人」の存在を社会が認めないということになるのか・・・・・。
そうでないとすれば、いったい「大人」とは何なのか。

この項、気が重いが、つづけるつもり。

バカ循環連鎖

今日は陰暦3月15日。
曇りの夜空に月が見え隠れする。
「雲隠れにし夜半の月かな」と口をついて出る。

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな 紫式部

何が言いたいか。
私たちは、「敬語」という幻想の中にいるのではないか。
「敬語」を使わなくてはいけないという幻想。
それが幻想であるがゆえに、たとえば「投薬」という言葉を医師や薬剤師が使うことにためらいを覚える。
これは「薬石を投ずる」という古来の慣用句があるが、「薬」も「石」も今で言う「クスリ」である。
「薬」はクサカンムリであることから分かるようにおもに薬草であり、「石」とは鉱石由来のクスリ、たとえば温泉の成分のようなものを指し示す。
そして、それがどのような効果を示すかは、与えた後でなければ結果は出ないというのが、漢方の本来的姿勢であるので、「投ずる」という言葉でよいのであり、それはけっして「投げ与える」といった高所からの動作ではない。
むしろ与える側の謙虚さの表れと言ってよい語法であろう。

まだ、何が言いたいかに行き着いていない。

> みんなもっと気軽に接すればいいんだよ。
> 悪口書かれたって気にスンナ。
> 2chはみんな本音で語ってるから、過激な表現もそりゃあ出るさ。
> 閉鎖されてもまた新たなのが立ち上がるだけ。
> 本音のはけ口って欲しいでしょう。
(アメーバニュースのコメントより)

「悪口」=「本音」=「過激な表現」という貧困さ。
本音を語ることが良いことであるかのように、「表現」を鍛えることなく表現することに、居直る。
いや、ネットに言語に対する責任など、求めてはいけない。
本音とは、「過激な表現」、つまりその場での恣意的感情的な表現であるという理解が、どこから生じたのか。

バカに対して「バカ」と言えば、バカから殴られるのがオチである。
そうした「世間的常識」から私たちは遠く離れてしまったのではないか。
あるいはバカに対してバカと言い、そのバカからまたバカと言われて、けっきょく「バカゆうたモンがバカですよ〜」と言い返し続ける、無限の「バカ循環連鎖」。
「本音」を本音のままで言い続ければ、その無限連鎖に陥るほかない。

前述の紫式部の歌には、敬語はひとつもない。
「たまたま出会って、見たのかどうか、それとも分からない間に雲に隠れてしまった夜中の月だなあ」
直訳すればそうとしかならない。
月が恋する相手だとすれば、敬語を使わないことから作者の意図もうかがえるし、使う必要のないときには敬語は使わないという昔の人の徹底した姿勢もうかがえる。

身分制度があやふやになった頃から、つまり鎌倉期、「平家物語」の頃から、敬語は乱れてきた。
身分制度に基づいたのが敬語であるのだが、擬制としての身分制が、鎌倉期から生じてくる。
室町期から戦国時代にかけてそれはあきらかになる。
本来何の身分でもない者が、「実力」によってのし上がるいわゆる「下克上」の世にあって、身分とは確固たる制度ではなく、制度に擬せられた「実力」の言い換えが、敬語によって他者からなされていく。
本来の敬語は、武士の世になったときに、すでに滅亡しているのである。
武士は自らの権威のために、敬語という擬制を使用しようとしたが、敬語を使う側からすれば、もともとは同じ身分の者に対して使うのであるから、敬語本来の位置づけは失われていかざるを得ない。

かくして、身分制度に基づいていた尊敬語・謙譲語は、たんなる「丁寧語」へと姿を変えていかざるを得ないのだが、本質は「丁寧語」であるものが、制度上は「敬語」として存続したのである。

私たちは今でも、「敬語」とは「敬意に基づく」と教えられ、そして信じているが、その「敬意」とは公地公民制に基づく身分制度の上に成り立っていたものなのである。
有り体に言えば、相手がバカであろうが、人格的に尊敬できなくとも、官位が上であれば敬語は使わなければ「ならない」ものなのである。
私たちは「敬意」とは「尊敬に値する人格」のことだといつの間にか信じこまされているが、それは間違いである。

じゃあ、優れた才能を持っている年下、子供に対して、大人が敬語を使うか?
三回転ジャンプはおろか、スケートすらできないアナウンサーが、浅田真央に対して敬語を使っているか?

私たちはいまだに「擬制」の中にいるのである。
だから、2チャンネラーたちは、「過激な表現」=「本音」と思い込み、「擬制に対する反抗」の姿勢を無意識にとっているのである。
その無意識の反抗に対抗するために、国語審議会の答申が存在している。

ピストル所持問題

伊藤長崎市長の射殺事件の報道について。

いまだに明らかに報道されていないのが、犯行に使われた小銃の流通経路についての情報である。
さまざまな「政治的」報道がなされているが、犯人が「暴力団」であるということで、ピストル所持がさも当然であるかのように報道されてはいないか。
「政治的」側面の報道も必要であるが、一国民=一住民として、なぜこのように簡単にピストルが発射され、殺害事件が生起したかが追求されなければならないはずである。

ちょうどアメリカでの32名殺傷事件と時を同じくして発生した事件ではあるが、銃がスーパーマーケットで買える国と、同じスタンスで語られてはならない。

「市長」が射殺されたことは、大きなショッキングな事件ではあるが、その銃が、「私」に向けられることはないのか、それは「私」が「市長」ほど重要でないからあり得ない/あるかもしれないという問題ではなく、何時誰にでも銃口が向けられる可能性が存在する国家であるということで、重要な問題として取り上げられなければならないはずだ。

今回の事件後の問題は、政治の問題ではなく、マスコミの問題である。

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