表現することは、理解されることと対になるものだろうか。
理解されることを望まない表現は、意味がないという言説も、
つまり理解されなければ表現する意味はない、
ということは説得力を持つが、
「表現」も「理解」も、どちらもサ変複合動詞として使用されるならば、
行為そのものに、「表現」や「理解」の本質がある。
単純に、「スポーツ」と「観戦」に置きかえれば、スポーツする側にも、それを見て応援する側にも意味があり、
「伝える」「(伝えられたものを)理解する」することには、一次的な意味はない。
言葉や音楽は、「何か」を伝えるものではない表現を、形作ってきた。
伝える意図を持った表現も作ってきた。
伝えたり、伝わらなかったり、理解したり、理解できなかったり、誤解したり。
私は、アマチュアアスリートが、身体を動かすのを愛するように、言葉や音楽を使って何かを形作るのが、好きなだけだ。
砂いじりが好きな、子供なだけだ。
そこに何かの力がある場合もあれば、何もないこともある。
地形の作り出す景観以上のものではない。勝手に通り過ぎたり、感動していればよい。
いま、未曾有の言語表現時代だと思う。
何かを伝えるのが言語だと思っているが、言語は、じつは、自分のものではない。
誰ものものでもない何かが、私たちの間を流れて通り過ぎている。
それだけだろうと思う。
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