私は、たとえばグラビア写真を見ていても、その背後にある、たとえば椅子やテーブル、壁、あるいは建物といったものに関心が移りやすい。
関心というより、それは心が吸い寄せられるといった、性質のものだ。陶酔といったものにやや近い。
それは山や川、草木といったものより、人造物であるように思える。
あたりまえの話だが、人間を物としては見ていない。
では金魚とか犬猫といった動物だったらどうだろう。
やはり金魚鉢の縁とか、首から垂れ下がったくさりや背後の犬小屋の屋根のペンキの色に心惹かれるような気がする。
フェティシズム [fetishism]
(1)呪物(じゆぶつ)崇拝。物神(ぶつしん)崇拝。
(2)〔心〕 異常性欲の一。異性の身体・衣類・所持品などの事物に対し、異常に執着・愛好する態度。(大辞林)
wikipediaにも詳しい解説があるが、省略する。昨今の「フェチ」の用法は誤りであるとするが、そのことはこれから私が述べようとすることに何らかの排除をもたらしはすれ、正の加算とはならないからである。
今、私は「私」と書いた。正確にはパソコンのキーボードを叩いたのであるが。
いったいいつから私は「私」という文字を綴っているのであろうかと、私の脳みそは過去の方向へ吸引されていくようであった。
それはまるで「失われた時を求めて」のようである。
しかしながら、今日の私は興味が続いていかない。
言葉というフェティシズムに話はすぐには向かわない。
紙の面に鉛筆やペンで書いていた「私」と、こうしてパソコンのキーボードを叩いて映しだされる「私」との間に、何の区別も見いだせないのである。
ほんの10年前には違和を感じていたくせに。
なぜだろう。「慣れとは恐ろしい」というのだろうか。
ユダヤ教と、その継続者であるイスラム教は、厳密に神の概念から物性を排除した。
もうひとつの継承者であるはずのキリスト教は、その厳密さに欠ける。
そもそもイエスを神の一人子としたところから、その不徹底は始まる。
イエスは動き、語ったわけだから、イエスから物性を排除することはできない。
ムハンマドも同じように物性を持った人間という存在であった。
しかしムハンマドは神の言葉を預かる人という立場を貫いた。
イエスも語り、動いたのだが、イエスの言葉は弟子によって語り継がれただけで、戒律としてはきわめてゆるくなってしまった。実際に新約聖書を読めばわかる。
ゆるい戒律を自発的に守らせるには、語り手に権威を与えればよい。
こうして、アダムの食べたリンゴの囓りカスが歯の間に残るように、物性というものが、何かの拍子に舌の先にさわるのである。
しょうがない。
私は仏教と神道とキリスト教にしか触れずに生きてきたので、キリスト教の話しかできない。
仏教と神道は(たぶん)あまりにも身近すぎて、あるいはほとんど自分そのものでありすぎて、却って語れない。
しかしながら、キリスト教に残された物性というものは、ひょっとしたら付与されたものかもしれない。
つまり、私たち人間は物を相手にしなければ存在できない、フェティシスト(的)な存在なのである。
・・・・・なのではないかなあ。
物性の徹底的な排除も、その裏返しとも言える。
私はここで、性的倒錯としてのフェティシズムを考えようとしているのではない。
もちろんこの考えはたやすく性的倒錯としてのフェティシズムに到達するであろうが。
PR