以前からなんとなくうさんくささを感じて遠ざけていたのだが、昼食に入った「すきや」で運の尽き、
最後まで聴かされてしまった。
何がうさんくさいかという説明をしようと思うのだが、すでにうさんくさいと言った時点で私は悪口しか書かないことが前提になってしまっている。
主語が「私」であること。
元の詩がそうなっているのだからしょうがないことではあるのだが、それをここまで受け入れる人口がいること、そもそも新井満が気になって、気に入って、翻訳して、曲をつけ、それを受け入れた多数の人がいること、この流の中に、何の疑問をさしはさむよどみもなく、まるでミネラルウォーターをのどに流し込むようにさわやかに受け入れていること、が/で、いいのだろうか。
この詩はけっきょく、「私」は死なないと言っているだけなのだ。悲しまないでくれと言ってはいるが、この曲を受け入れている流れの中では、「私は死なない/死んだとしても死んでいない」という自己詐欺が含まれている。人のことを思いやるふりをしながら、自分は死なないのである。
なぜ、「あなたは死んでいない」でないのか。
私たち東洋人や、ネイティブアメリカン達の、素朴=原始的ともいえる信仰体系の中で、死んでも循環するという信仰はごく当たり前のものである。
しかし、そうした信仰を捨てた現代日本人達が、「私は死んでいない」と歌うことは、「あなたは死んでいない」ということを前提としない、ごう慢な歌となる。
「あなたも、私も、祖先達も、鷲も、兎も、猪も、麦も、芋も、花も、生まれて咲いて散っていくが、それは消滅ではない、全ての循環の中で、姿を変えていくだけだ」
という考えの方が、彼らにとってはうさんくさいのだ。
だから「私」だけが死なないとしか考えられないのだ。
「お年寄り」たちが合唱している風景は、宗教的とすれば、お経を唱えている方がまだ健全に見える。
既存の宗教の方が、まだ深く、そして用心深くその点の議論を何百年も積み重ねている
はずだから。
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