ものごとを理解するということは、それらを支配下(アンダー・コントロール)に置くことなのだろう。
それは物理的な支配とは限らない。
意識下の支配となる。
「××は○○だ。」という単純な構文。
××を○○だと理解することは、××を○○だと規定することであり、理解する側が○○だと規定することによって××を支配することである。
あるいは、支配することによって規定が可能になる。
しかしながら、理解される側には、支配されない(アンコントローラブル)部分が残る。
この支配されない部分というのは、じつに、理解する側・支配する側には見えない。
つまり、理解する・支配するということには、理解されない・支配されないということが含まれていくのである。
言葉というのは、理解するためにしか使えない。
理解されない・理解できない・支配されない・支配できないことは、
否定形・打ち消しでしか表現できない。
(ということで、否定形の発見は、レトリック上重要な発見だったわけだが)。
「××は○○ではない。」
では、××は何なのか。
「○○ではない」としか表現されないときに、××に対する理解・支配は物理的な局面に及びうる。
理解・支配の道具である言葉を積み重ねることで、理解されない・支配されないもの(こと)に手を触れることはできるだろうか。
私たちが「慰霊」とか「供養」と呼んでいる行為や心性の中に、
積み重ねた言葉の石垣の隙間から、理解されない・支配されないもの(こと)の何らかの形が、しみ出す清水や、草の芽生えのように、浮かんでくるのではないか。
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