見ることは、見られること。
しかしながら、私たちは、見られることなく見ることを、望もうとしている。
あるいは、見ている私は誰にも見られていないと、思い込もうとしている。
私(たち)が、見ていたことを表明するとき、私(たち)は見られていたことを受け入れなければならないが、
そのとき私(たち)は、見られることを前提とした、見られている私であることをつくろおうとする。
つくろった「私」が、私を見ている誰かにとっては真実のすべてであることを取りつくろうために、
見られている私は、ほんとうの私ではないと、明らかに、あるいは言外に、私(たち)は意識しながら、
見るという行為を、自分の行為として認識しようとする。
私は、透明な視線とか、透明な行為というものを、否定しようとしているのかもしれない。
具体的な行為や、具体的な行為を説明するという動機は、いつも、何らかの澱を漂わせて、
濁っている。
透明な視線というものを、今の私は、創造/想定/空想できないでいるし、
それは、(ひょっとしたら)私は生まれながらに持っていた性質なのかもしれない。
透明というのは、見えないということであるのに、
透明と表現するのは、見えていることの表明であり、
見えていることをと見えていないと表現するのは明らかに韜晦であり、
私の表現は妄想ではあっても、空想ではない、のかもしれない。
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