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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

to see is to be seen


見ることは、見られること。
しかしながら、私たちは、見られることなく見ることを、望もうとしている。
あるいは、見ている私は誰にも見られていないと、思い込もうとしている。

私(たち)が、見ていたことを表明するとき、私(たち)は見られていたことを受け入れなければならないが、
そのとき私(たち)は、見られることを前提とした、見られている私であることをつくろおうとする。

つくろった「私」が、私を見ている誰かにとっては真実のすべてであることを取りつくろうために、
見られている私は、ほんとうの私ではないと、明らかに、あるいは言外に、私(たち)は意識しながら、
見るという行為を、自分の行為として認識しようとする。

私は、透明な視線とか、透明な行為というものを、否定しようとしているのかもしれない。
具体的な行為や、具体的な行為を説明するという動機は、いつも、何らかの澱を漂わせて、
濁っている。

透明な視線というものを、今の私は、創造/想定/空想できないでいるし、
それは、(ひょっとしたら)私は生まれながらに持っていた性質なのかもしれない。

透明というのは、見えないということであるのに、
透明と表現するのは、見えていることの表明であり、
見えていることをと見えていないと表現するのは明らかに韜晦であり、
私の表現は妄想ではあっても、空想ではない、のかもしれない。
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8月5日

私は自分を、被爆二世と言う。他人(ひと)も、たぶん、私は被爆二世だと言うだろう。

なぜ、私は被爆二世なのだろう。
人が名前でなく、その属性で呼ばれるとき、呼ぶものと呼ばれるものとの間にどうしようもならない断絶が生じる。
あるいは断絶を生起させるために、人は人をその属性で呼ぶ。
その属性は虚構ではないので否定できず、断絶は絶望的なものになる。

私が私を被爆二世と言うとき、自らが作り出した溝のこちら側で、立ちすくんでしまう。
他人(ひと)が私を被爆二世と言うとき、さっきまで届いていた手が、無限の距離の上で力なく揺れる。

8月5日、私は元安橋にいた。午前10時30分。
「核廃絶のための署名をお願いします」
女子高校生の声が、私の背筋を走り、目の奥から鼻にかけてつんと、思いが駆け抜ける。

私が自分を被爆二世と呼ぶのは、私の母が1945年8月6日、広島市祇園にいたからだ。
私の祖母もまた、その時小網町にいた。
母も祖母も、被爆しようとして広島にいたのではない。

人の属性は、必ずしもその人が望んで身につけるものではない。逆に、望んで自分のものになるものではない。
だから、私は自分が被爆二世である本当の理由がわからない。

彼女らは、そうした私のはっきりしない思いを突きぬけて、核兵器廃絶の署名を集め始めた。
彼女たちにとって、その行動の意味はさまざまだろうが、私には、私の祖母や母、そして私のために、暑い元安橋の上で声を上げてくれたようにしか思えなかった。

私は8・6前後に平和公園に行くことはなかった。
気が重いというか、腰が重いのだ。
署名を求める声を背に、明日の式典の準備が進む慰霊碑のあたりに行った。
親子連れ、外国人、平和ガイドを聞く数名の団体。

けっきょく、これらの情景は、私とは無関係なのだ。
全国から集まる各種団体、デモ行進、シュプレヒコール、高校生のころは、こうした様子がお祭り騒ぎのように思えて、腹立たしかった。
今日は、これはこれでいいのだと思えるようになった。平和を考える日が、一年に一日だとしても、それは尊いことだと。
しかし、それは私とは関係がない。

ふたたび元安橋に戻ると、ノーネクタイで上着は着ていないが、白い半袖シャツにスーツのズボン姿の男性たちが、署名に応じていた。
先ほどまで川向こう(たぶん広島郵便局職員殉職碑)で式をしていた人々だ。
その姿を見たときに、腑に落ちることがあった。
私にとって8・6は慰霊の日である。
Tシャツに半パン、スニーカーやサンダルを履き、あまつさえ首にタオルの人々は、その出で立ちからして慰霊にやってきたのではないことは明らかだ。
他人の葬儀に、そうした格好で来るだろうか。
彼らは死んだ人々を悼み慰めに来たのではなく、自分たちの(平和)学習のために来たのだ。
私はそのことを否定したり、揶揄する意図はない。
ただ、私がここにいる意味とは、大きくかけ離れているのだ。

来年も私はここに来るのだろうか。
墓に来るのは、いつでもいいだろう。
しかし、墓に来るのは死者を思い、死を悼み、死んだ者の霊を慰め、死者の思いを自分のものにするためである。

キーケース


キーケースを買った。
HakasEのブルガノレザー、グリーンにイエローステッチ。
数年前にフリスクケースを買ったのと同じメーカー。
皮の色合いや手触りが、フリスクケースよりずっといい感じ。
キーぎりぎりの大きさだし。
3本しか入らない。

で、必要なキーを入れてみると、2本だけだった。
家のキーと、車のキー。
P6010003.jpg
自分の人生って、そんなもんだろう。
たくさんの鍵がある人生より、シンプルでよい。
この2本で困らない。

母の夢を見た

先週の火曜の早朝、母の夢を見た。
家族の食事の席に母が並んで、
ごめんね、お母ちゃん死んどるけえ。
と言って、家族で食事をした。
そのときの食事は、カレイの唐揚げが丸ごと載った不思議な丼だった。

そういえば、母の揚げたカレイの丸揚げが好きで、
マヨネーズをかけて、ご飯にレタスと混ぜて食べていたことを
昼食からの帰り道思い出したので、ここに書いておく。

無念を分け持つ

私たちは、「死んだ仲間」の無念をそれぞれに分け持つことで、
その無念が大きく膨らみ増殖することを回避している。
しかし、小さく分け持たれたその無念が、それぞれの胸の内で少しずつ大きくなるとき、
その分け持たれた無念が再び一つになり、以前の無念より大きくなる。
だから、私たちは、できるだけそのことに触れないようにして、
場合によってはほとんど無言のままで、日々を過ごす。
無言の日々もまた、「死んだ仲間」の無念を絶えさせることなく、育てていくことになっていく。

という夢を見た。

海のお葬式

母の命日に先立って、父と墓参りに行った。
帰り道、助手席に座っていた父が、
「人間は残酷よのう」
と言った。
いったい何を指して言っているのか、最近の出来事を思い出そうとしたが、
それのどれが父の言う残酷なのか、はっきり思えなかったので、しばらく答えよどんでいたら、
父が言った。
「ここはようけえ魚がおったんじゃが」

私たちは西部流通団地の中の道を車を走らせていた。
この土地ができあがったのはもう30年以上前なのだが、
父の一言で、私の頭の中には、泳いでいる姿のまま、そのままの色で、そのままの目で、地中に埋まっている魚たちが思い浮かばれた。

お魚

海の魚はかわいそう
お米は人に作られる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で麩を貰ふ。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
こうして私に食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

 

大漁

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう

 

金子みすゞのこうした感性は、漁師たちの中で育つうちにはぐくまれたものだったのかもしれない。
獲るものと獲られるものという対立感覚ではなく、ともに海によって生きるものという感性。
海は、まことに広いのであった。

沖縄から帰ってきた

六年ぶりに沖縄へ行った。
初めの二日間、戦跡巡りをした。
座喜味城趾では生憎の雨風で、読谷の軍事施設等よく見えなかった。
風にあおられる傘を押さえながら、ランドマークを見つけようとしたが、かなわない。

次いで訪れたシムクガマは初訪問だった。
降りやまぬ雨も考慮して奥までは行かなかったが、懐中電灯を消しての暗闇体験は、すぐそこに入り口の光が見えるのに、私たちの体全体を包み込むのに十分な闇だった。
このガマでは、ハワイ帰りの二人によって、千人近くの命が長らえた。

楚辺通信所、通称象の檻が撤去されたことを、案内の平和ガイドさんに聞いたので、象の檻はどこにありましたかねえと言うと、ここですと指さされたところを見て呆然とした。
そこはバスを降りた目の前であり、今はもう何も残さぬ草原になっていた。
軍事施設がなくなることは、私たちにほっとした思いをいだかせるが、じっさいには他所でもっと強力な何かが、目に見えず、作られているのであろうことを感じさせる。

読谷村役場入り口あたりで、平和ガイドさんに読谷の静かな粘り強い「闘争」を聞くころには、バケツをひっくり返したような雨が続いた。

チビチリガマではバスの中で、平和ガイドの比嘉さんの話を聞いているうちに雨が小止みになり、ガマの前まで移動した。
チビチリガマでは避難中の140人中83名が「集団自決」した。じっさいには自死のみならず、家族同士の殺し合いであった。

シムクガマの投降も、チビチリガマの自死殺戮も、4月1日に米軍上陸、2日におこなわれた、どちらも命を賭しての選択だった。
生き延びたシムクガマの人々にも、助かったという無邪気な安堵はなかったはずのように思える。
沖縄戦は4月1日から6月23日(そしてその後も)、約3か月(あるいはそれ以上)かけておこなわれたのだが、この二つのガマでの出来事のような命の決定が、そのごく最初になされたということにあらためて気づくと、サトウキビ畑の向こうに広がる海が、1500隻ともいわれる艦船に埋まっていた写真の光景が、胸をふさぐように思い出される。

二日目も雨模様の中、魂魄の塔、沖縄平和祈念資料館、平和のいしじ、ひめゆり記念館を訪ねた。
アブチラガマ(糸数壕)は毎回訪れているが、コースも整備され(中身自体に手はつけられていないが)これまで見なかったところも案内してもらった。
ここは規模も、闇の濃密さも格別で、外に出たときはいつも生き返った感じを得る。

実際に沖縄に訪れると、頭の中の理解ではない、実感的理解が私たちをとらえる。
なぜ沖縄の人たちはこんなことを言うのか、ごく当たり前に理解が体の中に入り込んでくる。

三日目は観光で美ら海水族館、むら咲きむらで体験学習したのだが、ふとした拍子に現実感を喪失していることに気づく。
昨日までの戦争の傷跡の方が現実で、今の平和は夢なのではないかと。
それは四日目まで、少なくとも沖縄にいる間中続いた。

広島に帰った翌日も、うまく現実感を持つことができないでいたのだが、
広島の街を歩きながら、歴史の連続間を手に入れることができた。
今の平和が現実でないのでも、昔の戦争が現実でないのでも、ない。
昔の戦争から地続きで、今私がここで生きているのだという感覚が、すうっと私の中に入ってきた。
 

8月のまとめ

10日
反省会と打ち上げ。窓から夜鳴き屋にいって、2時過ぎ帰宅。
11日
だらだらと過ごし、
12日
アルパークの酔心で夫婦で昼食。ウニ釜飯に鱧天付き。めがねを直してもらったり、ゲーセンで一発取り、ガチャも欲しいアイテム取れたし。
13日
学院で10時から練習。午前中はセッション。午後は28日のための練習。
14日
バス50号線で宝町北下車、歩いてCreamに14時過ぎ。
荷物を置いてぎょうざ福万でラーメンとビール小瓶。
リハして、5時過ぎ末廣で天ざる。
本番Blue BossaとThe Chickenの2曲、ソロあり。
居酒屋広島藩で打ち上げ。燗酒が薄すぎ、でも3本飲んだかな。
2時過ぎに終了。直帰。
16日
20時からHJO練習。
17日
朝じゃらんで宿を取ってから柳川に出発。
美東SAで昼食。
柳川では御花に宿泊。とてもよい。
18日
白秋生家・記念館を観覧して帰広。
20日
12時過ぎ貸し切りバス乗車。今治ジャズタウンに出発。
17時半リハ。20時過ぎ本番。7曲。
打ちあげ。ホテル帰りに交差点で向井繁春さんに出会う。
21日
10時半リハ。
ランチミーティング。プロの方々と同席。
プロのリハを見学させていただく。
16時半過ぎ、ウェルカム演奏。
終わってすぐにバス乗車帰広。
27日
19時前、さくらピアリハーサル室で練習。
28日
9時からリハーサル室で練習。12時半から舞台リハ。
16時半コンサート終了。
打ちあげは海物語。2次会は坐和民。1時過ぎ帰宅。
29日
千代田温泉。月曜なので食堂はご主人ひとりで切り盛り。
中華そば、卵焼き、ごはん。キュウリの漬け物付き。
ご飯が美味しいので、千代田の米かと尋ねると、そうだが水が違う、ガスで炊くのもうまいのだろう。
水が違うので同じ米を買って帰っても美味しく炊けないだろうとのこと。
温泉も客が少なく、しまいには貸し切り状態。
久しぶりに水風呂に入った。冷たさが心臓に悪そうで控えていたのだが、大丈夫だった。気持ちよかった。

夢のような日々が終了した。
明日からまた現実に戻っていく。

被災地の高齢者

確かNNNニュースだったと思うのだが、
東大の先生が、福島の高齢者に健康相談をしていた。
室内に閉じこもって、却って健康障害が出ているというのだ。
そこで、いろいろな質問に答えていたのだが、
高齢者は放射能を浴びても癌にならないと言うのだ。
なぜ、正確に言わないのか。
癌になる前に死んでしまうと。

真実を言わない大学の先生と、真実を伝えないマスコミ。
子供だけが、置き去り。
もう私たちは、本当のことを知り始めているのだ。

コーヒー色の・・・てんまつ

23日、HJOの練習。一日中寝ていたが(ので?)、いった。
24日、朝、コーヒー色の尿。やっぱり疲れかと思っていた。昼頃みぞおちと背中に違和感、鈍痛。午後早めに早退して、タクシーで帰宅。タクシーの運転手さんが、いろいろ話しかけてくる。とどめは「お客さん今年の目標は?」その頃には痛みはひどくなっている。帰ってみると誰もいないので、やっとの事で布団を敷き、パジャマに着替えて寝る。痛みが背中を下りていくのがわかる。これは、尿路結石にちがいない。起きることもできずうなり声を上げる。ようやく奥さんに連れられて梶川クリニック。痛み止めを打ってもらうと、5分もたたないうちに楽になる。楽になったのでレントゲン。写ってないので、造影剤を注射してさらにレントゲン。石が膀胱まで下りているのでということで、ボルタレンの錠剤と座薬を処方してもらって終わり。パジャマでセブンイレブンにいったり、喫煙したり、結構おもしろい。地元でないし。
25日、痛みは楽だが、平常ではないので、休む。座薬のおかげで、便秘。しかしそれどころではない。
26日、この日は休めない仕事。錠剤と座薬でしのぎつつ。夜帰宅後、何とか便通。
27日、ゆっくり出勤していい日、かつ早く帰宅できる日。帰宅後、血尿とともに、砂のように石が出る。
28日、通常勤務。まあなんとかね。
29日、休日出勤。かなり普通。
30日、日曜。奥様とアルパークで昼食。リーガルのカジュアルシューズと、ベッピンテンでセカンドバッグ購入。併せて4万オーバー。でもいいものを買った。
31日、梶川受信。レントゲン、超音波診断。腎臓に、左右いくつかずつ石があるそうだが、痛くなったらまた来てね、ということで治療完了。というか、治癒したのか?これって。

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