見えないものは見えない。見えているものも見えない。
私は自分を、被爆二世と言う。他人(ひと)も、たぶん、私は被爆二世だと言うだろう。
なぜ、私は被爆二世なのだろう。
人が名前でなく、その属性で呼ばれるとき、呼ぶものと呼ばれるものとの間にどうしようもならない断絶が生じる。
あるいは断絶を生起させるために、人は人をその属性で呼ぶ。
その属性は虚構ではないので否定できず、断絶は絶望的なものになる。
私が私を被爆二世と言うとき、自らが作り出した溝のこちら側で、立ちすくんでしまう。
他人(ひと)が私を被爆二世と言うとき、さっきまで届いていた手が、無限の距離の上で力なく揺れる。
8月5日、私は元安橋にいた。午前10時30分。
「核廃絶のための署名をお願いします」
女子高校生の声が、私の背筋を走り、目の奥から鼻にかけてつんと、思いが駆け抜ける。
私が自分を被爆二世と呼ぶのは、私の母が1945年8月6日、広島市祇園にいたからだ。
私の祖母もまた、その時小網町にいた。
母も祖母も、被爆しようとして広島にいたのではない。
人の属性は、必ずしもその人が望んで身につけるものではない。逆に、望んで自分のものになるものではない。
だから、私は自分が被爆二世である本当の理由がわからない。
彼女らは、そうした私のはっきりしない思いを突きぬけて、核兵器廃絶の署名を集め始めた。
彼女たちにとって、その行動の意味はさまざまだろうが、私には、私の祖母や母、そして私のために、暑い元安橋の上で声を上げてくれたようにしか思えなかった。
私は8・6前後に平和公園に行くことはなかった。
気が重いというか、腰が重いのだ。
署名を求める声を背に、明日の式典の準備が進む慰霊碑のあたりに行った。
親子連れ、外国人、平和ガイドを聞く数名の団体。
けっきょく、これらの情景は、私とは無関係なのだ。
全国から集まる各種団体、デモ行進、シュプレヒコール、高校生のころは、こうした様子がお祭り騒ぎのように思えて、腹立たしかった。
今日は、これはこれでいいのだと思えるようになった。平和を考える日が、一年に一日だとしても、それは尊いことだと。
しかし、それは私とは関係がない。
ふたたび元安橋に戻ると、ノーネクタイで上着は着ていないが、白い半袖シャツにスーツのズボン姿の男性たちが、署名に応じていた。
先ほどまで川向こう(たぶん広島郵便局職員殉職碑)で式をしていた人々だ。
その姿を見たときに、腑に落ちることがあった。
私にとって8・6は慰霊の日である。
Tシャツに半パン、スニーカーやサンダルを履き、あまつさえ首にタオルの人々は、その出で立ちからして慰霊にやってきたのではないことは明らかだ。
他人の葬儀に、そうした格好で来るだろうか。
彼らは死んだ人々を悼み慰めに来たのではなく、自分たちの(平和)学習のために来たのだ。
私はそのことを否定したり、揶揄する意図はない。
ただ、私がここにいる意味とは、大きくかけ離れているのだ。
来年も私はここに来るのだろうか。
墓に来るのは、いつでもいいだろう。
しかし、墓に来るのは死者を思い、死を悼み、死んだ者の霊を慰め、死者の思いを自分のものにするためである。
母の命日に先立って、父と墓参りに行った。
帰り道、助手席に座っていた父が、
「人間は残酷よのう」
と言った。
いったい何を指して言っているのか、最近の出来事を思い出そうとしたが、
それのどれが父の言う残酷なのか、はっきり思えなかったので、しばらく答えよどんでいたら、
父が言った。
「ここはようけえ魚がおったんじゃが」
私たちは西部流通団地の中の道を車を走らせていた。
この土地ができあがったのはもう30年以上前なのだが、
父の一言で、私の頭の中には、泳いでいる姿のまま、そのままの色で、そのままの目で、地中に埋まっている魚たちが思い浮かばれた。
お魚
海の魚はかわいそう
お米は人に作られる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で麩を貰ふ。
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
大漁
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう
金子みすゞのこうした感性は、漁師たちの中で育つうちにはぐくまれたものだったのかもしれない。
獲るものと獲られるものという対立感覚ではなく、ともに海によって生きるものという感性。
海は、まことに広いのであった。
六年ぶりに沖縄へ行った。
初めの二日間、戦跡巡りをした。
座喜味城趾では生憎の雨風で、読谷の軍事施設等よく見えなかった。
風にあおられる傘を押さえながら、ランドマークを見つけようとしたが、かなわない。
次いで訪れたシムクガマは初訪問だった。
降りやまぬ雨も考慮して奥までは行かなかったが、懐中電灯を消しての暗闇体験は、すぐそこに入り口の光が見えるのに、私たちの体全体を包み込むのに十分な闇だった。
このガマでは、ハワイ帰りの二人によって、千人近くの命が長らえた。
楚辺通信所、通称象の檻が撤去されたことを、案内の平和ガイドさんに聞いたので、象の檻はどこにありましたかねえと言うと、ここですと指さされたところを見て呆然とした。
そこはバスを降りた目の前であり、今はもう何も残さぬ草原になっていた。
軍事施設がなくなることは、私たちにほっとした思いをいだかせるが、じっさいには他所でもっと強力な何かが、目に見えず、作られているのであろうことを感じさせる。
読谷村役場入り口あたりで、平和ガイドさんに読谷の静かな粘り強い「闘争」を聞くころには、バケツをひっくり返したような雨が続いた。
チビチリガマではバスの中で、平和ガイドの比嘉さんの話を聞いているうちに雨が小止みになり、ガマの前まで移動した。
チビチリガマでは避難中の140人中83名が「集団自決」した。じっさいには自死のみならず、家族同士の殺し合いであった。
シムクガマの投降も、チビチリガマの自死殺戮も、4月1日に米軍上陸、2日におこなわれた、どちらも命を賭しての選択だった。
生き延びたシムクガマの人々にも、助かったという無邪気な安堵はなかったはずのように思える。
沖縄戦は4月1日から6月23日(そしてその後も)、約3か月(あるいはそれ以上)かけておこなわれたのだが、この二つのガマでの出来事のような命の決定が、そのごく最初になされたということにあらためて気づくと、サトウキビ畑の向こうに広がる海が、1500隻ともいわれる艦船に埋まっていた写真の光景が、胸をふさぐように思い出される。
二日目も雨模様の中、魂魄の塔、沖縄平和祈念資料館、平和のいしじ、ひめゆり記念館を訪ねた。
アブチラガマ(糸数壕)は毎回訪れているが、コースも整備され(中身自体に手はつけられていないが)これまで見なかったところも案内してもらった。
ここは規模も、闇の濃密さも格別で、外に出たときはいつも生き返った感じを得る。
実際に沖縄に訪れると、頭の中の理解ではない、実感的理解が私たちをとらえる。
なぜ沖縄の人たちはこんなことを言うのか、ごく当たり前に理解が体の中に入り込んでくる。
三日目は観光で美ら海水族館、むら咲きむらで体験学習したのだが、ふとした拍子に現実感を喪失していることに気づく。
昨日までの戦争の傷跡の方が現実で、今の平和は夢なのではないかと。
それは四日目まで、少なくとも沖縄にいる間中続いた。
広島に帰った翌日も、うまく現実感を持つことができないでいたのだが、
広島の街を歩きながら、歴史の連続間を手に入れることができた。
今の平和が現実でないのでも、昔の戦争が現実でないのでも、ない。
昔の戦争から地続きで、今私がここで生きているのだという感覚が、すうっと私の中に入ってきた。
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