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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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バカ循環連鎖

今日は陰暦3月15日。
曇りの夜空に月が見え隠れする。
「雲隠れにし夜半の月かな」と口をついて出る。

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな 紫式部

何が言いたいか。
私たちは、「敬語」という幻想の中にいるのではないか。
「敬語」を使わなくてはいけないという幻想。
それが幻想であるがゆえに、たとえば「投薬」という言葉を医師や薬剤師が使うことにためらいを覚える。
これは「薬石を投ずる」という古来の慣用句があるが、「薬」も「石」も今で言う「クスリ」である。
「薬」はクサカンムリであることから分かるようにおもに薬草であり、「石」とは鉱石由来のクスリ、たとえば温泉の成分のようなものを指し示す。
そして、それがどのような効果を示すかは、与えた後でなければ結果は出ないというのが、漢方の本来的姿勢であるので、「投ずる」という言葉でよいのであり、それはけっして「投げ与える」といった高所からの動作ではない。
むしろ与える側の謙虚さの表れと言ってよい語法であろう。

まだ、何が言いたいかに行き着いていない。

> みんなもっと気軽に接すればいいんだよ。
> 悪口書かれたって気にスンナ。
> 2chはみんな本音で語ってるから、過激な表現もそりゃあ出るさ。
> 閉鎖されてもまた新たなのが立ち上がるだけ。
> 本音のはけ口って欲しいでしょう。
(アメーバニュースのコメントより)

「悪口」=「本音」=「過激な表現」という貧困さ。
本音を語ることが良いことであるかのように、「表現」を鍛えることなく表現することに、居直る。
いや、ネットに言語に対する責任など、求めてはいけない。
本音とは、「過激な表現」、つまりその場での恣意的感情的な表現であるという理解が、どこから生じたのか。

バカに対して「バカ」と言えば、バカから殴られるのがオチである。
そうした「世間的常識」から私たちは遠く離れてしまったのではないか。
あるいはバカに対してバカと言い、そのバカからまたバカと言われて、けっきょく「バカゆうたモンがバカですよ〜」と言い返し続ける、無限の「バカ循環連鎖」。
「本音」を本音のままで言い続ければ、その無限連鎖に陥るほかない。

前述の紫式部の歌には、敬語はひとつもない。
「たまたま出会って、見たのかどうか、それとも分からない間に雲に隠れてしまった夜中の月だなあ」
直訳すればそうとしかならない。
月が恋する相手だとすれば、敬語を使わないことから作者の意図もうかがえるし、使う必要のないときには敬語は使わないという昔の人の徹底した姿勢もうかがえる。

身分制度があやふやになった頃から、つまり鎌倉期、「平家物語」の頃から、敬語は乱れてきた。
身分制度に基づいたのが敬語であるのだが、擬制としての身分制が、鎌倉期から生じてくる。
室町期から戦国時代にかけてそれはあきらかになる。
本来何の身分でもない者が、「実力」によってのし上がるいわゆる「下克上」の世にあって、身分とは確固たる制度ではなく、制度に擬せられた「実力」の言い換えが、敬語によって他者からなされていく。
本来の敬語は、武士の世になったときに、すでに滅亡しているのである。
武士は自らの権威のために、敬語という擬制を使用しようとしたが、敬語を使う側からすれば、もともとは同じ身分の者に対して使うのであるから、敬語本来の位置づけは失われていかざるを得ない。

かくして、身分制度に基づいていた尊敬語・謙譲語は、たんなる「丁寧語」へと姿を変えていかざるを得ないのだが、本質は「丁寧語」であるものが、制度上は「敬語」として存続したのである。

私たちは今でも、「敬語」とは「敬意に基づく」と教えられ、そして信じているが、その「敬意」とは公地公民制に基づく身分制度の上に成り立っていたものなのである。
有り体に言えば、相手がバカであろうが、人格的に尊敬できなくとも、官位が上であれば敬語は使わなければ「ならない」ものなのである。
私たちは「敬意」とは「尊敬に値する人格」のことだといつの間にか信じこまされているが、それは間違いである。

じゃあ、優れた才能を持っている年下、子供に対して、大人が敬語を使うか?
三回転ジャンプはおろか、スケートすらできないアナウンサーが、浅田真央に対して敬語を使っているか?

私たちはいまだに「擬制」の中にいるのである。
だから、2チャンネラーたちは、「過激な表現」=「本音」と思い込み、「擬制に対する反抗」の姿勢を無意識にとっているのである。
その無意識の反抗に対抗するために、国語審議会の答申が存在している。
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やはり〜

以前からなんとなくうさんくささを感じて遠ざけていたのだが、昼食に入った「すきや」で運の尽き、最後まで聴かされてしまった
何がうさんくさいかという説明をしようと思うのだが、すでにうさんくさいと言った時点で私は悪口しか書かないことが前提になってしまっている。

主語が「私」であること。
元の詩がそうなっているのだからしょうがないことではあるのだが、それをここまで受け入れる人口がいること、そもそも新井満が気になって、気に入って、翻訳して、曲をつけ、それを受け入れた多数の人がいること、この流の中に、何の疑問をさしはさむよどみもなく、まるでミネラルウォーターをのどに流し込むようにさわやかに受け入れていること、が/で、いいのだろうか。
この詩はけっきょく、「私」は死なないと言っているだけなのだ。悲しまないでくれと言ってはいるが、この曲を受け入れている流れの中では、「私は死なない/死んだとしても死んでいない」という自己詐欺が含まれている。人のことを思いやるふりをしながら、自分は死なないのである。

なぜ、「あなたは死んでいない」でないのか。
私たち東洋人や、ネイティブアメリカン達の、素朴=原始的ともいえる信仰体系の中で、死んでも循環するという信仰はごく当たり前のものである。
しかし、そうした信仰を捨てた現代日本人達が、「私は死んでいない」と歌うことは、「あなたは死んでいない」ということを前提としない、ごう慢な歌となる。
「あなたも、私も、祖先達も、鷲も、兎も、猪も、麦も、芋も、花も、生まれて咲いて散っていくが、それは消滅ではない、全ての循環の中で、姿を変えていくだけだ」
という考えの方が、彼らにとってはうさんくさいのだ。
だから「私」だけが死なないとしか考えられないのだ。
「お年寄り」たちが合唱している風景は、宗教的とすれば、お経を唱えている方がまだ健全に見える。
既存の宗教の方が、まだ深く、そして用心深くその点の議論を何百年も積み重ねているはずだから。

ピストル所持問題

伊藤長崎市長の射殺事件の報道について。

いまだに明らかに報道されていないのが、犯行に使われた小銃の流通経路についての情報である。
さまざまな「政治的」報道がなされているが、犯人が「暴力団」であるということで、ピストル所持がさも当然であるかのように報道されてはいないか。
「政治的」側面の報道も必要であるが、一国民=一住民として、なぜこのように簡単にピストルが発射され、殺害事件が生起したかが追求されなければならないはずである。

ちょうどアメリカでの32名殺傷事件と時を同じくして発生した事件ではあるが、銃がスーパーマーケットで買える国と、同じスタンスで語られてはならない。

「市長」が射殺されたことは、大きなショッキングな事件ではあるが、その銃が、「私」に向けられることはないのか、それは「私」が「市長」ほど重要でないからあり得ない/あるかもしれないという問題ではなく、何時誰にでも銃口が向けられる可能性が存在する国家であるということで、重要な問題として取り上げられなければならないはずだ。

今回の事件後の問題は、政治の問題ではなく、マスコミの問題である。

オキュパイド・ジャパン〜やはり

クローズアップ現代「忍び寄る穀物高騰〜人と車の争奪戦〜」を見た。

アメリカとは、潜在的にバブルな国なのであろう。
1626年、オランダ西インド会社がマンハッタン島を先住民から24ドル相当で買い取った歴史的事実から、アメリカとアメリカが布衍しようとしてこれまで実施してきた世界と歴史が私たちの前にある。
381年前の24ドルが今の日本円にしていくらなのかは、知らない。
大事なのは、土地をお金で買ったという事実である。
じつにここから、今私の目の前にある世界が展開し始めたのである。

なぜに人間や動物を養うはずの穀物(トウモロコシ)が、車を動かす燃料としての価値と相克せねばならないのか。
「ごく当たり前のこと」が見失われている。
穀物は「人間や動物の食べ物」という原理・原則である。
穀物は「生産者(あるいはそれを動かす者)」に利益をもたらすもの。
もっと原則的に言えば、「物←→お金」の歯車を形成するものとしてのみ、成立させられているのである。
古典的な日本人の感覚から言えば、「トウモロコシで車を動かしてトウモロコシが満足するか?」ということではないか。

地面にお金を払い、それを所持=占有することに根拠を与える。つまり、お金が根拠。
それ以外はない。
それがアメリカの成立条件なのである。
そういう視点からすべてを見てごらん。そうなっているでしょ?

そして同じ番組で映し出された日本の畜産業者の風景〜ケージに閉じこめてウシやニワトリを飼う〜もまた、アメリカ的な風景なのである。
ウシやニワトリに食わせるトーモロコシがあるなら、わしに食わせろというのが、日本人の原風景ではないのか。
それをウシやニワトリに食わせるというのは、「経済原理」のもとで成立している風景だからである。
だから、ウシやニワトリの飼料が、車の燃料の原材料と、喰い合いを始めるのである。

日本人の喰うものが10円や100円値上がりしようが、それはアメリカにとって何の関係もない。

いいではないか。日本人は米と、塩を溶いた汁と、塩をしみ込ませた野菜を喰ってきて、何百年も問題なかったではないか。

改憲議論より先に、食料の国内自給率を上げることの方が、どれほどの優先課題であるか。
それすら日本国民は問題にしない。
戦後間もないときに「ララ物資」としてアメリカから(わずかな)食料が提供された。そのまま今があると思いこんでいるのだろうか。
外国から自らを閉ざしたときに、文化が発展を見せ人口が増えたという歴史的事実を、いったい誰がどのような責任においてなさねばならないのか。明らかではないか。
なりふり構わず泥まみれになることを美徳としてきたのが、日本の歴史ではないのか。
「美しい国」とは、修辞としてではなく、まさに泥まみれで己が命を養ってきた歴史に対してのみ有効な言辞であるはずだ。

自民党はもう一度、農林水産業従事者に基盤を置く覚悟があるのだろうか。(いや、ないはずだ。(反語))

オキュパイド・ジャパン

日本はいまだに連合国(主に米国)の占領下にあるのではないかという感想を、以前記した。
もちろんそれは文化的な面からの感想でもあったのだが、
約3万7千人の米陸海空および海兵隊が日本領土内で軍事的に存在し、135施設 1,011,359,000?(Wikipediaに拠る)が日本領土内に存在するという事実をもって、どれほど日本が独立国家であるかということに相応の国際的論拠が与えられるのか。

・・・・にしても、これまでの私の語調や語彙は、なぜにこんなになっているのか・・・・ともかく・・・

日本国憲法第9条に関する議論に、この視点が抜け落ちているのはなぜか。
擁護派にせよ改憲派にせよ、果たして在日米軍(外国軍)の存在を顧慮した議論をこれまでに見たことがない。

第9条擁護論者は、もちろんの如くにその多くが、自衛隊違憲論であり、日本の非軍備化を理想としている。
しかしながら、在日米軍をゼロにすることを条件において、軍備廃絶を唱えたものは、大きな議論としてみたことはない。
ひが目で見れば、日本は非軍事化するが軍事面はアメリカにやらせる、という考えを表面化させずに「きれいごと」を言っているように思える。
それはたとえば、平安朝において、「穢れ」事を侍にやらせて自分はきれいごとのみを唱えていた貴族と同じスタンスであるといわれてもしょうがない。
日本の非軍事化は、在日米軍の全面的排除とペアでなければ意味をなさないことに、誰か言及しているのだろうか。

いっぽうで、(それ以前からもそうだったのだが)小泉内閣時代に顕在化し、現安倍内閣が押し進めている改憲論にも、在日米軍の存在に関する議論が抜け落ち、連合国(アメリカ)に与することが独立国家であるという、サンフランシスコ条約締結当時の潜在的同意が明らかになったという位置にこれらの議論が存立している。

右翼・左翼というイデオロギーがかつてはアメリカ対ソビエト連邦という構図の中にあったのに対して、改憲論者も憲法擁護論者も、じつは同じ土壌に成り立っているという奇妙な構図がある。

かつて右翼対左翼という対立が健全(?)であったころ、日本が共産主義(=ソ連の影響下=支配下)になれば、むしろ軍事化が進むという意見もあった。(アメリカ派の世論操作かもしれないが。)
冷戦構造が完全に崩壊して何十年もたった今、アフガンやイラクから見えるのは、「独立の構造とは何か」という命題ではないだろうか。

アメリカに与することで、独立しているという言質をアメリカから取るのか、在日米軍を完全に排除し、さらに自衛隊という名の軍隊を廃絶することで、全世界を相手に独立を宣言するのか。
日本とアメリカが戦争していたことを知らない世代がいるというこの世の中で、つまり、パクス・アメリカーナの中にどっぷりつかっている日本で、そのことは可能なのか。

私は戦争擁護論者ではない。軍備必要論者ではない。
しかし、軍備を持つ/軍備を全廃するということが、たんなる議論ではなく、私たちの全き自由な生存としての自立の議論としてなされたことはないのである。

改憲し軍隊を持つことも、憲法を擁護し軍備を全廃することも、まず日本から他国の軍備を排除することを大前提とする議論から始めなければ、どっちもどっち、なのである。

宗教〜定義(?)

宗教をどう定義するか。
Wikipediaでは、このように説明されている。
自分としては、従来自分がとっていたような字義による説明etc.をするつもりはない。
定義の幅の最低限としては、「信じることの体系」という前回述べた定義で充分な気もする。
それでは不十分でもありながら、それでもよいと感じているのは、
> 現代日本人は宗教をきちんと定義づけられていないように
考えているからである。
この定義にもう少しだけ言葉を加えれば、
「超越的だと自分たちが考え/感じているもの」を信じる体系。ということになる。

そこで私たちに複雑さを加える要素として、「超越的(な存在)」の定義が俎上にのぼることになる。
しかしながら、「超越的(な存在)」とは、じつは「信じることの体系」によって定義づけられるものであるから、こういった物言い(言説)は循環計算を強いることになり、歩みは先に進まないように思える。
それで私は宗教を、「信じることの体系」としてのみ措定してみることから始めてみる。
つまりそこには「科学という宗教」というような一時代前的な言説の中に私の片足(あるいはそれ以上)が踏みとどまっていることを、否定することに傾きながら否定しきれない予感の中に私がいることに他ならないことの表明でもある。
でもあるのだが、「現代の信仰」というふうに言葉を変えてみると、私たちが思っている「宗教」の定義=意味がどれほど曖昧であるかにつきあたっていく。

やはりわたしは字義的な説明をせねばならないのだろうか。
2004年の「夏の旅」で考察/感想したような、「信仰」<−>「信心」という命題にゆきつくのかもしれない。
しかし、そうした命題が何かを説明してくれることに、何の期待も持てないでいる。
それよりなにより、説明することが「信じることの体系」を解き明かすことになることにも、懐疑的である。
なんだか小林秀雄的ラビリンスにいることを、カレイドスコープ中の住人のように楽しんでいるようでもある。

つまり私が宗教を「信じることの体系」と措定していること自体が、現代日本の宗教の定義を代弁している。というより、自分がその中にどっぷりとつかっている現代日本を客体化できていないことを証明している。
今は、とりあえず、「宗教」という迷路の中にいる、「現代日本人」としての自分を認識しているしかないように思う。
この項、さらに続く。

夜桜を他所に

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寺という建物の裏を通り過ぎぬ

墓並ぶこれがつひの栖ぞ

崩されてトータテという旗のみ立っている


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ここはもう踏切じゃない渡れない

たかだか十二年と云えども我が生家(うぶや)

宗教〜シャーマン

宗教について語るとき、宗教を信じるか信じないかという議論になるのは、特異な例になるのかもしれない。
多くの場合、「××を信じる/信じない」という議論になるのだろうか。××は、創始者の名であったり、信仰の対象であったり。
とすれば、「宗教を信じる/信じない」というのは、「宗教教」/「非宗教教」の議論になる。

宗教を語るときに不透明に複雑さをもたらすのは、宗教が「信じることの体系」だからではないか。
つまり有り体に言えば、「宗教」を信じないというのは、「宗教を信じない」を信じていることになるからではないか。

多くの場合、現代日本人は宗教をきちんと定義づけられていないように思える。
と、この項を書くにあたって「アメーバニュース」でコメントが多かった美輪明宏と江原啓之の項目について、考えたからである。

はっきり言って、美輪明宏や江原啓之は宗教ではない。
あれは「口寄せ」である。ある種の「霊媒師」である。
霊魂が存在するかという問題に関しては、議論する必要もあるかと思うが、どう考えても霊魂は存在しない。
存在というのは物理的に確認できることに対して定義されるものであって、信じるかどうかという事柄に対してなされるものではない。
存在とは、空間と時間を占有するもののみに与えられる認識であって、あると信じる(だけの)ものは、存在とは言えない。
真摯なクリスチャンや仏教徒etc.は、「神」や「仏」が「いる」とは決して言わない。

彼ら(彼女と彼?)は優れたシャーマンであると、私は信じる。
吉本隆明の『共同幻想論』の中に確かあったと思うが、シャーマンは共同体の無意識の認識に自己の無意識を同化させる技術を(無意識に)身につけるのである。
恐山のイタコがあれほどまでの修行をし、多くの人々が訪れ故人の言葉をその口から聞こうとするのは、イタコの無意識の認識と自らの無意識の認識とが(かなりの部分で)一致すると感じるからである。
シャーマンに求められる技術とは、じつにそこなのである。
自分のもとに訪れるものが何を求めているのか、それを知るものが、シャーマンとして認められるのである。
じつに簡単な話で、恐山に登る者は、故人となった家族や知人と話がしたいのである。
その時点ですでに何が求められているかは、イタコにはすべて自明のことなのである。
あとは個別に接したときの人間的感触から、話題を選べばよい。

私はシャーマンを否定しない。
それは高度な修行を必要とする。
日常生活においても、人が何を言っているのかわからない者は、あまりにたくさんいるではないか。
わずかな息づかいや雰囲気から、相手が何を言おうとしているのか、求めているのかを知ることは、決して容易なことではない。
そして、その光景は、第三者から見れば、むしろ理解不能な滑稽な場面に見えたり、逆に不可解であるがゆえに高度な精神的瞬間に思えたりするのである。
真実の光景は、シャーマンと依頼者との一人称的関係とでも言うべき関係の中でしか、見ることはできないのである。
精神科医やカウンセラーの多くが、クライアントの悩みを背負ってしまいがちになることと、まったく同様のことなのである。
したがって、クライアントが理解不能な「紀元前10世紀のツンドラ地方の××族の誰それがあなたの前世だ」とは言えない(言わないのではなく)のである。
あくまでもクライアントの中にあるものに寄り添うことが、シャーマンとして資質なのである。

さて、シャーマンについての感想を述べすぎた。この項、つづく。

『下流志向』

内田樹『下流志向』。2週間ほど前に読了したのだが、なるほど、着地点はそこか。

2001年10月6日および2004年10月13日から18日にかけて、不定期日記(web版)で私は消費社会について論考しようとした。
そこで私が考えたことは次のようなことであった。

・「貨幣経済」は、「物」と「貨幣」が逆方向に移動することと言える。
・景気とはその移動の量と速度による。
(以上01年10月6日)
・私(たち)は、お金と物を交換することが好きなのではないか。
・そうした(お金と物を交換することが好きな)社会のモラルとは、お金と物の交換を阻害しないことにつきるのではないか。
・そのことをモラルの原点に据えれば、年齢による差異も、性別による差異も、そしてじつは貧富の差異(「貧富の差」ではない)も、なくなる。
その先に、情報化社会があり、情報化社会とは、情報がお金や物と同じあつかわれ方をする社会のことではないか。
・第1次・第2次産業従事者が人口の半数を割ったとき、それらの生産の場が、半数以上の人々の視野から霞んでいき、第1次・第2次産業を基盤としたモラル上では、ほとんど理解不能な状況になった。つまり、交換されるものが、生産上・消費上(=生命維持上)価値のあるものであるかどうかは、問題とされない。
・価値の有無を問わず、交換されることだけが、唯一の問題なのであり交換されることに価値が生じている。
・その交換においては、等価であるかどうかすら問題ではない。
・有り体に言えば、生産<->消費という体系の中に求められる価値ではない。
・生産の場が視野から外れていったとき、日本におとずれたのが「バブル経済」であり、「バブル経済」で経験したことは、物が動くことが経済だという理解である。
・「消費者」という位置づけは不思議だ。すべての人間が生産者ではないが、すべての人間が消費者なのだ。
・「消費者」とは、差別のない世界であり、消費する者のどのような属性にも拠ることなく、「消費者」と呼ばれる。
・法の下の平等と言うが、今は消費に基づいた平等である。では、消費の多寡による差別はあるのか。それはないのではないかという思いと、あるような気がするという予感のあいだにいる。
・「消費すること」を実行することが「消費者」の資格であり、それが1円であろうが、1000万円であろうが、本質的には変わらない状況にあるのではないか。
(以上04年10月13日〜18日)

自分の実感からだけにしては結構いい線行っていたようにも思うが、やはり資料の裏付けと、論考を進めていく根気に欠けていた。
そして何より、どこに着地すれば良かったのか、あまりにも漠然と、世相を描こうとしていた。

その点内田はさすが武闘家である。
相手を倒すことを目的においても、決してそれを目標にはしない。
目標にするのは、たとえば「体をかわす」とか「眉間を打つ」といった個別の目標なのである。
個別の目標のない目的は、じつは目的とは呼べないものなのである。
つまり04年の私は目標も目的も持たずに、考えるふりをしていただけなのだが、こうして内田先生に我が蒙を啓いてもらって、くやしいやらうれしいやら。

黄砂

霾(つちふる)という季語があることを「折々の歌」で知った。
DSC00004.jpg

店々がしきりにウィンドウを拭いたり、目や喉がいがらっぽかったり、
霾とは街にこそ似合うのかもしれない。

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